敦賀の歴史概略

原 始古 代
縄文の世界  北の海っ道  弥生の世界  敦賀の原像  気比神宮  
一万数千年の縄文時代、世界に類を見ない循環と共生の長い社会であった。その後の日本歴史の基底に影響を与える。 古代、北っ海(日本海)では各地の潟湖間で交流、半島から渡来人が滴るようにやってきた。畿内に近い敦賀津も主要な潟湖のひとつだった。 紀元前3世紀ごろから稲作が普及し、生産経済の進展とともに鉄器の使用によって各小国館の対立と併合が進んだ。 大陸(朝鮮半島)から多くの渡来人が敦賀にやって来た。伝説の人物ツヌガアラシトが敦賀の起名伝説となる。北陸地方でいち早くヤマト政権下に組み込まれた。 敦賀は気比神宮とともにあった。地域の地主神からヤマト政権の支配のもと国家鎮護の神となり、戦前までその位階を上げていった。
敦賀の神々 渤海使
古代敦賀郡には、延長5年(927)延喜式神明帳記載の式内社は43座。それは越前国全体の3/1強、若狭国全体に匹敵する。 遣唐使が波濤を越えていた頃、日本海では渤海国との交流が盛んに行われ、多くが敦賀を経由、滞在して京に向かった。
古代からの街道
鹿蒜道 木の芽古道 深坂古道 七里半越え 黒河越え  
敦賀から越の国に向かう最古の道は険阻な木の芽山地(かひる山)を越える鹿蒜道であった。多くの都人が歌を詠んだ。 北陸道は天長7年(830)頃、木の芽山地鞍部木の芽峠を越える道が開発され、明治まで千年の官道となった。 敦賀から京の都へは、深坂峠を越えた。紫式部が歌を詠い、馬借が越え、旅人が行き交った古道は今も残る。 律令制下の官道北陸道、敦賀から近江への道は七里半越えとよばれ、敦賀港と琵琶湖水運を結ぶ。 近江から敦賀への最短距離、黒河越えはいつしか西近江路の間道となっていった。
中 世
中世の敦賀 南北朝争乱 国吉城 金ヶ崎の退き口 刀根坂の戦い
武家政権成立後、戦国期を経て天下統一に至る中世、物資の全国流通の増大とともに敦賀津は結節点として、重要性を増した。敦賀の原型を形成していった。 南朝新田義貞の野望は幻の北陸朝廷から始まり、金ヶ崎城に拠って戦う。金ヶ崎城址はその哀史を追憶させる。 越前朝倉氏の攻勢から守り抜き、織田信長の越前進攻、退き口を支援した若狭の堅城。 織田信長最大のピンチ、世にいう金ヶ崎の退き口の古戦場。羽柴秀吉などのしんがりがあった。今も多くの史跡が残る。 近江から織田信長は急迫して、朝倉軍を刀根坂で殲滅。戦国大名朝倉氏の滅亡。
越前一向一揆 賤ヶ岳の戦い 大谷吉継 今 庄   
越前一向一揆は木の芽山地城塞群で織田軍を迎えるが、もろくも敗退。今も城塞跡は残る。 羽柴秀吉、天下覇権への戦い。敗者柴田勝家の本陣跡、玄蕃尾城を訪ねる。今も、その遺構をとどめる。 関ケ原の戦いに散った敦賀城主大谷吉継、石田三成への友情か、豊臣家への義か、現代でも人気のある戦国武将。 古代律令制下今庄地域は越前国敦賀郷鹿蒜郷だった。木の芽山地を挟んで密接な歴史があり、今庄宿は今も江戸期の姿を残している。
近 世
北国の都  本州横断運河  水戸天狗党   近世の文芸  敦賀の仏教 
蝦夷地、奥羽の海産物、畿内の加工品が敦賀湊で行き交う。中継商業が隆盛する。井原西鶴に「北国の都」と言わしめた。 平重盛の伝説から昭和まで、琵琶湖への水運開発は続けられた。壮大なる歴史的計画だったが。 尊皇攘夷を掲げて上洛を目指した水戸天狗党は、雪深い敦賀で降伏。未曾有の悲惨が待っていた。 湊町敦賀の文芸は気比社を支えた町衆のエネルギーと社家によっていた。 一向宗が盛んな越前国で、敦賀の仏教界は中世新仏教が鼎立していた。越前一向一揆では比較的消極的だった。
 近 代
明治維新 戦前敦賀港  敦賀の鉄道  難民上陸  昭和の敦賀
近世から近代、明治維新は敦賀の町も行政、社会インフラ、生活などの大変革であった。 大陸と太平洋側を最短距離で結ぶ敦賀港は、明治、大正、戦前日本の大陸経営の拠点であった。国際港敦賀の繁栄があった。 明治初年政府は日本海側の敦賀への鉄道開設を急ぎ、明治15年敦賀港へ開通、明治22年東海道と連結した。 ユダヤ難民、シベリアポーランド孤児は敦賀港を見てやっと天国を見た。 第一次世界大戦後、、日本資本主義の未熟・脆弱さ(国際競争力)を露呈していく。対内外の不安が強まり、血なまぐさい弾圧、暗殺、陰謀が繰り返され、ファッシズムが戦争・惨禍をもたらした。
現 代(太平洋戦争後)
戦 災 戦後復興   戦後敦賀港  電車の鉄道 道路の近代化  
日本海側で最初に米軍の空襲を受けた。被災都市のなかで最小の町だった。敦賀港は大陸経営の戦略港であった故であった。市街地のほとんどは灰塵に帰した。 占領軍(GHQ)の占領基本方針は日本の民主化・非軍事化・軍国主義の根絶であった。また、民衆の思想を束縛していた治安維持法の廃絶、政治・信教・民権の自由が保障された。 先の大戦で敦賀港は焼夷弾によって破壊されたが、日本海側の重要港として復興する。しかし、産業の太平洋側への偏重、戦後モータリゼーションによる物量体系の変化によって、敦賀港の相対的地位は低下していった。 昭和37年北陸トンネルが完成し、蒸気機関車から電車に。福井県と嶺北地方および関西・中京方面との鉄道交通事情は大きく変わった。次いで、北陸新幹線計画は高速ネットワークに敦賀を組み込んでいく。  三方を山に囲まれた地理上の切所も、トンネルによって一気に解消した。人馬の道の中の敦賀からひとつの歴史的役割を終えた。
地 史  名 勝 
 原子力発電所  現代の敦賀 歴史年譜 中池見湿地   気比の松原  
1970年代のオイルショック後原子力の活用が始まった。敦賀は原子力発電所立地自治体となり、電源三法交付金などで自治体財政は潤った。しかし、1911年の福島第一原発事故が起きた。 戦後、海運から陸運、モータリゼーションの進展によって敦賀の町は大きく変容した。また、原子力発電所立地都市としての顔を見せるが、東電福島第一原子力発電所の事故から敦賀はいま模索を続けている。 数万年の地史が残る。貴重な湿地は多様な生態系を残し、里山の原風景を残す。ラムサール条約に登録。 気比神宮の神苑であった。今は、市民・県外の人々の憩いの名所。敦賀の太古からの海岸の原風景を想わせる。
市 史
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