蒸気機関車は汽笛を鳴らし、黒い煙を噴出して敦賀駅を出発する。25‰の急勾配と12か所のトンネルが待つ今庄駅までの木の芽山地越え。最初のスィッチバックの信号所で勢いをつけた機関車は木の芽山地を抜くトンネル群に突入していく。窓を閉め切っても煤煙は車内に入り込む。空気はうっすらと白く濁り、煤煙の臭いが充満する。杉津駅に着く。旅客は一斉に窓を開け外の空気を入れる。眼前に敦賀湾が眺望できる。それも束の間、再び機関車は息切れしたように煙を噴出して、トンネル群に突入していく。本格的な山中峠越え、トンネルまたトンネル、大桐駅までは難行苦行にも似る。そして、今庄駅に着くと旅客は窓々に寄る駅売りから陶器に入ったお茶や蕎麦を買い求めた。名物の「あんころ餅」も。 |
敦賀~長浜鉄道建設 柳ケ瀬線 | ||||||
柳ケ瀬トンネル滋賀県側石碑(伊藤博文筆) |
明治3年11月英国公使パークスは三条実美、岩倉具視等に東京-神戸と敦賀-琵琶湖間の鉄道建設の必要を説いた。翌年、鉄道敷設のための調査が始まった。日本海側最初の敷設となる。また、琵琶湖の東岸か西岸かの論議があったが、東海道線(中山道)等の連結を視野に入れることで、東岸に決まった。また、敦賀~滋賀県間の山越えも重大な問題であった。 敦賀へのルート決定 当初の計画は長浜を経て現在線より西寄りを通り、木ノ本の西2kmの西山から西へ曲り、琵琶湖岸に出て湖岸に沿って塩津に至った。西山-塩津間には1/66勾配のトンネルもあって、敦賀-琵琶湖間の最短ルートという考え方であったが、琵琶湖の水運、敦賀への最短距離よりも勾配を重要視しなければならないことから、塩津経由に拘らず、他のルートの調査も行われた。山越えの勾配がもっとも低い柳ヶ瀬ルートが採用された。 |
スイッチバックを登るSL(旧刀根駅) |
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中之郷駅跡 (滋賀県長浜市余呉町中之郷) 敦賀港金ヶ崎駅 長濱・柳ケ瀬間 下等汽車賃銭表 長浜鉄道スクエア展示 |
『越前国敦賀海陸図』
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柳ケ瀬トンネル敦賀側入口 現存する日本最古の小刀根トンネル 旧柳ケ線刀根駅付近 長浜・金ヶ崎間 汽車時間表 長浜鉄道スクエア展示 |
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松浦武四郎著『甲申日記』に見る当時の敦賀 |
敦賀港の繁盛 | |||
明治17年、長浜~敦賀間の鉄道において柳ケ瀬トンネルがが開通して、敦賀港のい移出入は飛躍的に伸び、敦賀に繁栄をもたらした。 | |||
敦賀市史(下)より |
又た険坂の隧道貫通の自由を得るに至れば、近国近隣は云うに及ばず、他府県等より豪商が出店して大営業を開業せんとするもの数多あるならん、との風説は頻々なりとの事。 敦賀市史(下)より |
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三菱会社 敦賀港に買い求めてあった敷地数千坪の浜地に石造倉庫三棟を作り始める。 敦賀共同社 敦賀港の有力者山本伝兵衛が坂井港の前田閑氏を社長として設立。 敦賀組の解散、共同社と合併 室、中村氏が経営する敦賀組を解散して共同社に合併。 |
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敦賀市史(下)より |
敦賀駅の移転 柳ヶ瀬線開通時、敦賀駅は気比神宮前にあった。北陸線伸長に伴って現在位置に移転し、港への線は港線(支線)となった。
気比神宮前にあったころの敦賀駅
『敦賀・若狭100年』郷土出版社刊より
「越前国敦賀海陸図」
敦賀停留場(明治22年)
敦賀港の不況 明治32年、鉄道が富山まで開通すると北海道に対する移出入は伏木や七尾の両港において集散され、敦賀港の国移出入は鈍化していった。また、外国貿易も不振をかこってた。この現状を打破すべく大和田荘七を中心として、「敦賀外国貿易協会」と「敦賀外国貿易汽船会社」を設立して、外国貿易に活路を求めていった。
敦賀市史(下)より
画像提供 印 敦賀市立博物館提供 印 敦賀市提供