古代律令制下では南越前町今庄地区は越前国敦賀郡鹿蒜郷であった。人馬の時代、鹿蒜郷へは木の芽山地の難所を越えなければならなかった。江戸期、今庄は東近江への北国道開発にともなって宿場町として繁忙を極めた。近代に入って、今庄は鉄道の開通によって、蒸気機関車の基地としてその重要性を得た。しかし、車両の時代、海岸線の自動車道路(国道8号線)の開通、北陸トンネルの開通によって木の芽山地の難所は解消され、今庄の重要性は低下していった。宿場町の姿を今に留めている。 |
越前国敦賀郡鹿蒜郷 | ||||
敦賀から木の芽山地を越える最古の街道は鹿蒜道だった。天長7年(830)に北陸道が開削された主要街道となり、明治まで千年の官道となった。この木の芽山地を越えると鹿蒜村であった。今庄宿の西方一帯にあった村である。1889年(明治22年)4月町村制の施行により、帰村・新道村・大桐村・山中村・二ツ屋村の区域をもって発足。1951年(昭和26年)4月1日 - 今庄村に編入。同日鹿蒜村廃止となった。 | ||||
山中峠より敦賀湾 山中峠 峠への道 山中峠案内板 |
木の芽峠 言奈地蔵堂付近の古道 笠取峠 敦賀新保宿~二ツ屋宿を木の芽古道 |
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木の芽峠案内板より作成 鹿蒜道・北陸道分岐(南越前町上新道) |
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鹿蒜田口神社(下新道) |
鹿蒜神社(旧帰村) |
敦賀 西福寺末寺 円覚寺(旧帰村) |
鹿蒜川に沿って北陸古道(今庄宿付近) |
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新羅・高麗の痕跡 | ||||
新羅神社(今庄宿) |
白髭神社(今庄宿) |
白鬚神社(合波) |
日野川(旧淑羅川) |
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白鬼女伝承 日野川のことを白鬼女(しらきじょ)川、白鬼(しらき)信露貴(しろき)川とも呼ばれていた。日野川の水源(夜叉ケ池)に皇女白姫の霊を祀る社があるという。 |
今庄宿 | ||||
今庄宿は、古代荘園公領化が進む中、新しい荘園として「今庄」となったと推定できる。中世に入って宿場町として集落化していった。戦国時代末期の1587年(天正6年)柴田勝家が越前北の庄に封ぜられた時、安土,京都方面への近道として北国道を道巾三間といわれる大道に改修した。北国街道(栃ノ木峠越え)は江戸参勤には最短路で、越前の各藩によって繁盛し、江戸時代中期以降は、商用や京への寺参り、伊勢参り等の旅人の宿泊が急増し、宿は繁忙を極めた。天保年間(1830~44年)には戸数が290余り、旅籠屋55軒、茶屋15軒、娼家2軒、縮緬屋2軒、鳥屋15軒などがあった。現在もその面影を留めている。
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文政の道しるべ 右 京、敦賀・若狭・左 京、伊勢・江戸 旅籠若狭屋
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南越前町今庄 |
町並み 町並み 脇本陣 |
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塗籠の外壁 京藤甚五郎家
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水戸天狗党が残した刀傷
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現存する商家 | ||||
戦 乱 | |||
交通の要地は軍事的戦略地でもある。古代から戦国期、敦賀と関連する幾たびかの戦いがあり、その城址を残している。 | |||
燧ヶ城址 |
杣山城址 |
湯尾峠 | 鉢伏山城塞跡 |
城跡には旧街道沿いの新羅神社・観音堂神社横手から登る。源平の戦いで木曽義仲軍が籠り、その後南北朝の抗争、一向一揆など室町・戦国期でも使用され、現在残る遺構はこの時期のものと考えられる。 「義仲の寝覚めの山か月かなし」芭蕉 |
南北朝争乱、南朝側の新田義貞は瓜生保とともにこの杣山城を拠点にして戦った。金ヶ崎城の戦いに北方から攻めるも瓜生保は敦賀市樫曲で戦死する。 | 湯尾峠の麓で上野が原の戦いが行われた。今庄から北へはこの峠を越えなければならない。松尾芭蕉も歌を詠んだ。『月に名を つつ兼ねてや いもの神』。 | 敦賀と今庄を画する木の芽山地の城塞群の一つ、最も高所にある。 |