彼の城の有様、三方は海に依りて岸高く巌(いわほ)滑らか也。巽(たつみ)の方に当たれる山一つ城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下すといえ共、岸絶(たえ)地僻(さがり)にして、近付寄せぬれば、城郭一片の雲の上に峠(そばだ)ち、遠くして射れば、其の矢千仞の谷の底に落つ。『太平記』 |
皇太子桓良親王敦賀へ下向 |
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新田義貞敦賀へ 湊川の戦いで勝利した足利側は京都で室町幕府を樹立、後醍醐天皇は奈良吉野で対立し、南北朝時代が始まる。後醍醐天皇の命によって、新田義貞は恒良親王をともなって、敦賀へ下向の途に就いた。恒良の異腹の兄尊良(たかなが)親王、洞院公資の子実世らの公家、義貞の弟脇屋義助、義貞の子義顕、新田一族の堀口貞満・一井義時らのほか、千葉貞胤・河野通治らの武士がこれに従った。 下向の経緯 後醍醐・足利尊氏の講和に苦しい立場に立たされたのは新田義貞であったであろう。講和となれば義貞は戦うべき目的を失い、、戦いを続ければ賊徒の汚名を着ることになりかねない。同じ新田一族で義貞の軍に参じていた堀口貞満が、後醍醐に抗議したと伝えられている。後醍醐はこれに感じて皇太子恒良(つねなが)親王に皇位を譲り、新帝恒良を義貞に託して越前に下らせ反攻の時を待つことになったと『太平記』巻一七は記している。 |
下 向 経 路 北国道方面・冬 |
幕府軍の対応と新田軍の雪中行軍 足利幕府方の対応は、下向を予期して、越前守護斯波高経の軍勢は近江・越前国境山中峠を固めた。琵琶湖北岸に到着した義貞軍は、越前守護斯波高経が固める予定の七里半越え(現国道161号)の進路をとれなくなった。義貞軍は北国街道を北上し、木の芽峠(北陸道)に向かった。しかし、例年になく寒冷な年にあたり、その日も風雪激しく、山越えには厳しい天候にさいなまれ凍死する者が続出し、従軍してきた河野通治軍は本隊とはぐれ、佐々木・熊谷(越前河口荘の「悪党」)に襲撃され討死する。千葉貞胤も斯波高経に降参し、義貞軍の疲弊はおおうべくもなかった。ともかく、北国街道から迂回して木ノ芽峠を越えた義貞軍は、ようやく10月13日、敦賀津に到着したという。敦賀で義貞軍を迎えたのは気比社の気比氏治で、氏治は恒良・尊良の両皇子と新田義貞・義顕らを金ケ崎城に入れ、その他の軍勢は敦賀津の在家に分宿させたという。『太平記巻一七』より |
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新田義貞の戦略ー幻の北陸朝廷・越後との連携 | |||
新田義貞像/菊池容斉画(明治時代) |
幻の北陸朝廷 一説にいう北陸朝廷構想である。、北朝暦歴の延元元年(1336)11月12日付結城親朝に充てて下された恒良の令旨と後醍醐(恒良の綸旨とも言われている)の綸旨が『結城文書』に伝来している(資2 結城文書一・二号)。文書の真偽に問題はあるが、新田義貞は綸旨をもって援軍を募っていたことは確かであろう。しかし、北畠親房の『神皇正統記』には譲位は記されておらず、後醍醐天皇が吉野で「もとの如く在位の儀てぞましましける」とある。これによって北陸朝廷は正史から外れ、幻となった。 越後との連携 義貞軍が、金ケ崎城を西の基点として越後にいたる地域に勢力圏を構築すべく、義顕・義助らを越後に派遣した。そもそも、新田一族は上野国新田荘(群馬県太田市・新田町および埼玉県深谷市など)から越後国内に所領を得ている越後守であった。越後への兵站線を企図した。しかし、幕府方は義貞の作戦を早くから察知していた。義貞の北国落ち以前から越後の新田勢へ攻撃をかけ(『色部文書』)、義貞軍が吹雪の木の芽峠越えを行っている10月12日には、信濃国の守護・地頭・後家人に対する攻撃命令が出されていた。信濃国の国人市河親宗は、11月3日、「信州惣将軍」村上信貞に属して越後の「守護目代」を追い落としたと書き記している(『市河文書』)。義貞が構想した戦略構想は、すでに撹乱されていた。 また、義貞の越前における地盤固めが難航したのは、越前国府を押さえられなかったことによる弊害だと言われている。 |
金ヶ崎城址は別名月見御殿と言われた。御殿跡からの敦賀湾の眺望 |
義貞・その後の戦い | |||
新田義貞の最大の与力は嵯峨源氏の流れを汲む今庄杣山城主瓜生保だった。上野(うわの)ケ原の戦い、そして金が崎城の攻防では新田義貞等と幕府軍の背後を衝いて奮戦するも樫曲付近で敗死する。戦死の地、樫曲集落の山中に墓が建立されている。その後も一族は越前府中で幕府軍を破るなどして、新田義貞再起に寄与した。 | |||
杣山城と上野原の戦い | |||
杣山城遠望 福井県観光連盟素材集より |
杣山頂上城跡より |
湯尾峠砦跡 |
上野ケ原の戦い案内板 |
新田義貞の転戦 | |||
新田義貞 金ヶ崎城を奪還 新田義貞は敦賀樫曲での合戦に敗れ、撤退し、今庄杣山城で金ケ崎落城の知らせを知った。「有ルモ無キガ如ニテヲハシマシケル」と『太平記』巻一九は表現しているように、すぐに攻撃できる余裕はなかった。後日、義貞軍が活動を再開すると、幕府は府中(現越前市)に斯波高経を下して杣山城を攻撃させた。籠城戦が数か月に及んだが、今度は隣国加賀から敷地・山岸・上木らの武士が畑時能の誘引によって越前に侵入し、平泉寺衆徒の過半が足利方から離反し、斯波の軍勢に対抗した。明けて暦応元年(一三三八)二月、今立郡鯖波宿に偵察に出た脇屋義助の軍に斯波方の細川出羽守が攻撃をしかけたことから、両軍とも主力を投入しての全面戦争に発展し、結局斯波高経は府中を放棄して足羽郡(現福井市)に撤退した。義貞らはこののちも越前国内を転戦して軍事的主導権を握り、四月までに金ケ崎城を再び奪還した。 |
金ケ崎城を奪還された幕府は、若狭守護の斯波家兼・近江守護の佐々木道誉らをして金ヶ崎城を攻めさせた。朽木頼氏は、四月末に荒地(愛発)中山関から疋田にいたり、ついで金ケ崎城攻撃に加わっている(資2 内閣 朽木家古文書四号)。しかし金ヶ崎城は容易に落ちず、むしろ越前国内の義貞軍側の活動はより活発化していった。五月に幕府は加えて土岐頼貞を越前に向かわせ戦況の打開を試みたが(『熊谷家文書』)、成果は上がらなかった。また、越後国南朝方が再び動きだし、越中国守護井上俊清・加賀国守護富樫高家の軍を撃破して越前に迫っていたという(『太平記』巻二〇)越後の池・風間以下の南朝方の動きはすでに前年四月には始まっており、越後の主だった幕府方の武士は在京しているという状況のなかで、幕府もその対応に苦慮していたが(『市河文書』、『上杉家文書』)、越後勢と義貞軍が合体するとなれば、幕府軍のいっそうの苦戦は免れえぬところであった。北陸朝廷という軍事戦略の実現が現実化しつつあった )(福井県史第二章第一節金ヶ崎城奪還参照) |
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新田義貞の最後 | |||
新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町) |
幕府方に思わぬ展開が待っていた。新田義貞の戦死である。南朝方の軍事的優勢のなかで足利方に残された黒丸城などへの本格的な攻撃が開始されて間もない閏七月二日の夜、偵察にわずか五〇騎ばかりの兵を率いて出た義貞は、藤島城(現福井市)に夜襲をかけようと黒丸城を出た。しかし、細川出羽守・鹿草(完草)彦太郎の軍勢と灯明寺畷で遭遇し、射手をもたぬ不利をつかれてまたたく間に義貞の従者は討たれた。その場にとどまった義貞も致命傷を負い、自害して果てたという。 | 新田義貞墓廟 称念寺 (福井県坂井市丸岡) |
旧官幣中社 金崎宮 | ||||
南北朝争乱で散った南朝方の霊を祀る。尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と敗死。尊良親王御年27歳、恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒殺される。明治23年9月、尊良親王を御祭神として創建、宮号を金崎宮として官幣中社に加列される。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀された。建武中興15社のひとつ。 | ||||
参 道 境内花見 |
ご祭神 尊良(たかなが)親王 桓良(つねなが)親王 |
摂社絹掛神社
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花換え祭 | ||||
現在は桜の名所、「花換え祭」という戦前から福(恋)を交換する催事が行われている。「そぞろ心のゆきずりや 花換祭りおぼろ夜の 灯かげ彩なす思いをば だれにあかさん胸のうち」長唄「四季の敦賀」(作詞土岐善磨・作曲町田嘉章) |
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桜の小枝を渡す巫女さん 金崎宮公式サイト |