天正3年(1575)信長は次の攻略目標を越前一向一揆に定め、8月14日敦賀に到着する。一揆側の総大将下間頼照は木の芽山地の木の芽、鉢伏、観音丸、西光寺丸の各城塞に立て籠もり、対峙した。木の芽山地は福井の嶺北、嶺南を分ける嶺であり、源平・南北朝・戦国期の争乱、一向一揆など、各年次にわたる合戦の要害として重要視されてきた。
木の芽城塞群
天正2年(1575)8月以降、織田軍の再侵攻にそなえて、木の芽峠の観音丸砦に総指揮官の下間照勢(『信長公記』巻八),、鉢伏砦に一家衆の大町専修寺・丹生郡西光寺・南条郡正闡坊(府中陽願寺)・今小路(丹生郡常願寺)・足羽郡照護寺勢(資4 勝授寺文書一九号)また、海岸沿いの敦賀郡杉津口を若林・府中坊主衆・堀江衆らが守った(「朝倉始末記」)。これらの人びと以外にも、『信長公記』によると阿波賀三郎兄弟が鉢伏砦で、石田西光寺が本覚寺勢とともに鷹打砦で、大塩円宮寺勢や加賀衆が杉津口で守備についている。福井県史四 織田信長と越前一向一揆信長軍への防禦  
鉢伏山城 木ノ芽峠城砦  西光寺丸城 
鉢伏城縄張り
鉢伏山城(標高762メートル

木ノ芽峠城(標高620メートル)
西光寺城縄張り
西光寺丸城(標高643メートル

鉢伏山城址から敦賀湾
一揆持ちの国・越前
信長による朝倉氏滅亡後の支配は朝倉側からの降将、前波吉継に任された。しかし、府中を本拠とする富田長繁は桂田氏の支配に天正2年正月反発する。大野や吉田郡志比荘および坂井郡本郷などの一揆勢、および府中近郷の一揆勢が加勢し、一乗谷の桂田長俊を滅ぼした。ついで北ノ庄の織田氏武将三人を追放した。2月上旬には加賀より七里頼周を招請し、一揆勢は旧朝倉系の降将らを次つぎと攻め滅ぼしていった。2月中旬には、新道・杣山・葉原・鯖波の南条郡や敦賀勢、八社荘や織田荘・栗屋(厨)・本郷・棗三郷の坂井・丹生郡勢、本覚寺・専修寺率いる北袋・南袋・足羽・志比荘・河北の大野・吉田・足羽郡勢、宅良・三尾河内・真柄・北村の南条・今立郡勢らが蜂起した。続いて、杉浦玄任(本願寺坊官で当時加賀下向)の率いる河北一揆勢が、坂井郡金津の武将溝江氏を討ち果たした(「朝倉始末記」)かくして越前は「一揆持」の国となった。
一向勢の防御態勢と織田軍の侵攻・木の芽(目)崩れ 

「進者往生極楽 退者天魔地獄」の幟
白山市立鳥越一向一揆歴史館展示

一向勢本陣・豊原寺跡
越前市旧武生のお寺巡り 円宮寺の画像
円宮寺(越前市あおば町)

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龍門寺城跡(越前市あおば町)
戦いの推移

木の芽城塞群の山々
1575(天生2)年8月、織田信長は一揆鎮圧のため10万余の軍勢を率いて、14日には敦賀に着陣した。翌15日、、信長軍は木ノ芽峠攻撃の丹羽長秀・滝川一益・蜂屋頼隆などの軍勢と、杉津口攻撃の羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家等の軍勢の二手に別れて総攻撃を開始した。東浦海岸の杉津口では、信長軍に寝返った堀江景忠らが鉄砲で円宮寺と若林長門守に背後から攻撃したため杉津口はもろくも崩れ、信長軍は大良(だいら)越えで府中(現越前市)へ一気に侵攻し、、木の芽城塞群で信長本隊に敗れた一揆勢を迎え撃った。そして、府中での過酷を極めた残党狩りが行われた。信長は8月21日までに少なくとも6000人の首を切ったとつたえられいる。山々に逃げたものは老若男女かまわず切り捨てよと信長は命じた。信長や他の武将が奪い取った数は4万人に上ったと伝えられる。
杉津から大良超えの海岸線

木の芽山地より府中(越前市)方面を望む
一揆勢の敗因  坊官大坊主分と在地一揆勢の内部対立
一向宗徒首塚
打ち首になった僧侶200人の首塚
(越前市五分市町 真柄山城福寺)
石山本願寺は信長軍再侵攻に対する防禦を固めるべく100年に及んで形成された加賀型の坊官指導体制がそのまま導入された。しかし、長らく坊官や大寺院の支配を経験してこなかった越前一向衆にとってまさに未知の体験であった。種々の不満が高じて、ついに天正2年7月に志比荘の兵衛や阿波賀の清道ら「十七講」の衆が本願寺体制に謀叛をおこした。和田本覚寺はこれを誅罰し、続いて丹生郡の天下衆・吉田郡河合の八杉や河北の本庄宗玄らも成敗し、同2年閏11月には豊原寺の下間頼照を討とうとした河合荘の者たちが逆に坊官若林勢に討たれた。このように、坊官・大坊主分と在地の一揆衆との内部分裂が高じ、信長侵攻に対する動員は思うように進まなかった。 
参考資料
福井県史 敦賀市史 信長公記 朝倉始末記・他

相互リンクHP『加賀一向一揆』

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