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一向勢の防御態勢と織田軍の侵攻・木の芽(目)崩れ |
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「進者往生極楽 退者天魔地獄」の幟
白山市立鳥越一向一揆歴史館展示
一向勢本陣・豊原寺跡 |
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円宮寺(越前市あおば町)
龍門寺城跡(越前市あおば町)
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戦いの推移 |
木の芽城塞群の山々 |
1575(天生2)年8月、織田信長は一揆鎮圧のため10万余の軍勢を率いて、14日には敦賀に着陣した。翌15日、、信長軍は木ノ芽峠攻撃の丹羽長秀・滝川一益・蜂屋頼隆などの軍勢と、杉津口攻撃の羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家等の軍勢の二手に別れて総攻撃を開始した。東浦海岸の杉津口では、信長軍に寝返った堀江景忠らが鉄砲で円宮寺と若林長門守に背後から攻撃したため杉津口はもろくも崩れ、信長軍は大良(だいら)越えで府中(現越前市)へ一気に侵攻し、、木の芽城塞群で信長本隊に敗れた一揆勢を迎え撃った。そして、府中での過酷を極めた残党狩りが行われた。信長は8月21日までに少なくとも6000人の首を切ったとつたえられいる。山々に逃げたものは老若男女かまわず切り捨てよと信長は命じた。信長や他の武将が奪い取った数は4万人に上ったと伝えられる。 |
杉津から大良超えの海岸線 |
木の芽山地より府中(越前市)方面を望む |
一揆勢の敗因 坊官大坊主分と在地一揆勢の内部対立 |
一向宗徒首塚
打ち首になった僧侶200人の首塚
(越前市五分市町 真柄山城福寺)
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石山本願寺は信長軍再侵攻に対する防禦を固めるべく100年に及んで形成された加賀型の坊官指導体制がそのまま導入された。しかし、長らく坊官や大寺院の支配を経験してこなかった越前一向衆にとってまさに未知の体験であった。種々の不満が高じて、ついに天正2年7月に志比荘の兵衛や阿波賀の清道ら「十七講」の衆が本願寺体制に謀叛をおこした。和田本覚寺はこれを誅罰し、続いて丹生郡の天下衆・吉田郡河合の八杉や河北の本庄宗玄らも成敗し、同2年閏11月には豊原寺の下間頼照を討とうとした河合荘の者たちが逆に坊官若林勢に討たれた。このように、坊官・大坊主分と在地の一揆衆との内部分裂が高じ、信長侵攻に対する動員は思うように進まなかった。 |