遺髪は一まとめに束ねられてガラス箱の上板の小さな鉤に下げられていた。老人は髪を押しいただくと一つ一つの名前を改めていった。老人の手は小きざみに震えていた。ゆっくりゆっくり、ねじれている紙の皺を伸ばしながら変色して読みにくくなった文字をすかすようにして読んでいった。ある髪を手にとったとき、老人は「ああ。」と呻くような声を発し次に声を出して泣き始めたのである。その髪を胸に抱き、あるいは握りしめ、あるひは押しいただき激しい慟哭に身体を波うたせた。.....(中略).....やがて「....これは.....これは.....私の髪の毛でございます......私の.....。」老人はまた嗚咽に身をふるわせた。
上坂紀夫著『髪』永巌寺史掲載より抜粋
天狗党処刑時、永巌寺は15歳以下の少年11名を、僧門に帰依させる条件で引き取った。少年達は剃髪し、自らの髪を和紙に結んで住職に預け、刑死した家族を弔った。そして、年月を経て、その中のひとりが老いて、永巌寺を孫と共に訪れた。
水戸天狗党挙兵・京へ西上 | ||||
万延元年(1860)3月3日、尊王攘夷派の水戸脱藩士によって、大老井伊直弼は江戸城桜田門外で暗殺された。ついで、井伊と対抗した尊攘派の前水戸藩主水戸斉昭が同年8月病没した。このことは幕末政治史上一大転機をなった。斉昭死去後、、水戸藩では尊王攘夷派と諸生派(門閥派)の対立が激化する。攘夷派は天狗党と称して挙兵するも、幕府の弾圧によって失敗。天狗党は武田耕雲斎を首領として、尊皇攘夷の志を朝廷に奏上すべく上洛を企てた。総勢約800名の行軍であった。軍律「軍令条」は厳しかった。一、罪のない人民を妄りに手負せ殺害致候事、一、民家へ立入財産を掠め候事、一、婦女子を猥りに近づけ候事、一、田畑作物を荒し候事、一、将長の令を待たず自己不法の挙動致候事、右制禁の条々相犯すに於ては断頭を行ふ者也 福井県史第六章 幕末の動向第三節 浪士勢の西上、諸藩への衝撃より | ||||
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敦賀への過酷な行軍 | |||
天狗党新保村に入る。迎える加賀藩兵 |
「此峠は常に旅人の通行なき所にて、只一筋の樵(きこり)径あるのみ、殊に暗夜積雪四五尺、行路東西を弁せす、三里程の難場なりしが、同勢八百余人、一同心を協はせ、大砲八門車台を取りはづし、其の隊々にて之を舁ぎ荷ひ、病人は肩輿に載せ、同志舁き助け、其の辛苦艱難言ふへからさりしも、同勢の精神、天神の擁護にやありけん、小荷駄二百余人と共に難なく、夜四つ半頃、越前国秋生村に着泊せり」(「波山始末」『福井県大野郡誌』)と伝えている。大野藩は近在の村を焼くなどして一行の行進を邪魔したが、今立への進軍を見送った。今立郡池田、南条郡今庄宿を経て木ノ芽峠を越える。そして12月11日雪中行軍を克服して敦賀郡新保宿に着く |
木の芽峠言奈地蔵付近 |
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木の芽峠付近から新保宿 |
明治維新後の天狗党
幕末薩摩藩士
ウィキペデイアより馬関戦争、薩英戦争などで、列国に対する攘夷が無理であることはすでに趨勢となっていた。しかし、慶応3年の大政奉還、王政復古がなされた後、慶応4年(1868)正月、天狗党に対して「勤皇の志ある趣天聴に達し候」と朝廷より帰藩が許された。且つ「烈公の遺志を継ぎ奸徒を掃除し、反正の実行顕れるよう尽力すべし」の朝命が出された。天狗党に加わって遠島処分となった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名は、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。
慶喜が大政奉還を諮問した二条城天狗党の逆襲 弘道館戦争
弘道館正門弘道館戦争
明治元年10月1日(1868年11月14日)に水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館において行われた、水戸藩内の保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の戦い。水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった。松山戦争
彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、武田らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。門閥派と天狗党の抗争は続き、多くの有意な人材が失われた。今も水戸地方の一部で、身内争いのことを「天狗」という
水戸城薬医門
海音寺・司馬対談
海音寺 (前略)後年、明治になってから伊藤痴遊が井上馨に「どうしてあなたたちは攘夷だ攘夷だといって騒いだんですか。攘夷などできないとわかっているじゃないですか」「いや、それはそうだけれども、あの時は攘夷でなければならんかったのだ」とね。(笑)
司 馬 実に本質を射た言葉ですね。坂本竜馬でも攘夷青年とつきあってる時は、自分の開国思想はおくびにもだしてないんですね。うかうか出すと斬られちゃいますからね。『日本歴史を点検する』対談 海音寺潮五郎 司馬遼太郎 講談社刊より
姉妹都市
敦賀市と水戸市は水戸烈士没後100年(1965)時、姉妹都市となった。烈士の行動については賛否、是非あるが、大志に殉じ、悲惨な最後を迎えた天狗党の歴史事実に両市は哀悼の意を確認している。
画像提供 印 敦賀市立博物館提供 印 敦賀市提供