福井県嶺北(越前国)と嶺南(若狭国)を分ける分水嶺が木の芽山地である。木の芽山地の峠を越えて行く北陸道のうち、最も険しい敦賀新保宿から今庄二つ屋宿の間を「木の芽古道」と呼ぶ。天長7年(830)頃木の芽峠が開発されてから明治まで主要官道であった。往時、源義経主従、新田義貞、道元禅師、本願寺蓮如上人、松尾芭蕉、数知れない人々がこの峠を越えて行った。
草の葉に かどでせる身の 木部山 雲に路ある ここちこそあれ
道元禅師
北陸道の難所(木の芽古道)
  敦賀市街から木の芽古道へは、ゆったりしたカーブが山間を縫う廃線跡道路(国道476号)を進む。葉原集落、続いて新保集落に着く。新保宿は敦賀側最後の宿場で古来より鉱泉が出ていた。ここより木の芽峠、二つ屋宿の間を木の芽古道と通称する。   

敦賀市新保集落

木の芽古道入口(新保)

峠への登り道(国道脇)

水戸天狗党陣屋
  新保集落から木の芽峠に向かう道は次第に勾配を強くしていく。田んぼの間を抜けると木の芽古道の案内板がある。やがて古道を峠に向かう。木の芽川の源流に近い渓流に沿って峠に向かう。やがてつづら折りの道になって、峠に着く。峠には江戸期に造られた石畳の道が残る木の芽峠の周辺には笠取峠、言奈地蔵堂など古道の面影を色濃く残している。   

木の芽古道案内板
敦賀市教育委員会作成

峠への古道

腰掛け岩

峠付近渓流沿いの道
岩に刻まれた爪描き地蔵
弘法の爪描き地蔵さん


弘法の爪描き地蔵案内

紫式部和歌説明

峠付近から
木の芽峠

親鸞・蓮如往還記念碑

峠に建つ道元禅師碑建長5年(1253)永平寺道元禅師が京都に帰るとき、送ってきた弟子徹通とこの峠で別れたと伝えられた。弟子に与えた誌が碑に刻まれている。
  木の芽峠から二ツ屋宿へ  

言奈地蔵と古道峠付近の古道は今もその姿を残している。峠近くにある言奈地蔵は行き交う旅人を見つめていた
木の芽古道(北陸道)は峠を越えると、言奈地蔵、笠取峠を経て、今庄側最初の宿場二つ屋宿に着く。
峠付近稜線には、木の芽、鉢伏山、観音寺、西光寺などの木の芽城塞群跡がある。木の芽峠直下まで、国道365〜365スキー城〜林道経由で車で行ける。

笠取峠
笠取峠の馬子唄
朝たち馬の 手綱を肩にかけ
坂東岩を 上り行き
沓掛場に 沓をかけ
笠取峠を 越え行けば
横波にて 汗をひき
木の芽峠と なりにけり

案内板より
 
板取宿
北国道は越前と東近江を最短距離で結ぶ街道である。天正(1578)越前北の庄に封じられた柴田勝家が栃の木峠を改修した後、交通が頻繁になった。織田信長の居城安土城に赴く、または軍用道路としての側面を持っていた。板取地区に宿場の家屋が現存している。板取宿は往時、越前藩南端の関門として栄えた。宿馬31頭、人足60名が常駐していた。江戸時代に入って、関所としての機能をもち、越前藩士が常駐し、旅人を取り締まった。幕末のころ戸数52戸内問屋三軒、旅籠七軒、茶屋三軒などが立ち並び賑わっていた。甲造り型、妻入り型造りの民家が現存している。  

板取宿門

関所跡

現存する民家

甲造り型民家
  蓮如上人御影道中木の芽古道を行く   
   蓮如上人御影道中、1752(宝暦2)年に吉崎別院での蓮如上人御忌(ぎょうき)法要に際して、本山本願寺から上人の御影をお迎えして勤められたことが始まりであると伝えられています。以来、毎年、吉崎別院で蓮如上人御忌法要が厳修される時期に、上人が歩いたといわれる、吉崎別院までの約240キロの道程(みちのり)を、随行教導や、宰領(さいりょう)をはじめとする供奉人(くぶにん)方が、会所に立寄りながら一週間かけて歩き、上人の御影を門信徒の待ち受ける吉崎の地へ運ぶ旅(御下向)が連綿として続けられています。。真宗大谷派(東本願寺)ホームページ  


雨中、西近江路から敦賀疋田に入る。 

霧中の木の芽峠付近

笠取峠
 

吉崎御坊跡(福井県あわら市吉崎)


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