近江の国から敦賀への道は、湖北の海津より山中峠を越える海津道(七里半越え)があった。海津道は塩津浜からの深坂越えと敦賀の追分で合流して、古代愛発関を経て敦賀に至った。愛発関は古代三関の一で、その所在地については諸説があるが、延暦八年(789)廃止された。海津道はのちに西近江路または七里半街道と呼ばれた。律令時代の道路として、北陸道は畿内と日本海側を結び、令制国の国府を結ぶ官道であり、小路とされた。またこの官道は、琵琶湖の水運とつなぐべく、琵琶湖の北岸に点在する海津、大浦などと密接に往来していた。 また、室町期以降専業化した馬借が行き交う街道であった。 |
七里半越えと言われる街道は古代北陸道の山中峠を越える一部である。敦賀市街地から疋田・追分からほぼ国道161号に沿って存在した。
古代の七里半越え | |||
中央集権体制をとる律令国家にとって「官道」は、都と大宰府を結ぶ山陽道、東国や陸奥を結ぶ東海・東山道、そして北陸・山陰・南海・西海道であった。しかし、律令国家以前より住民の生活上の必要から自然発生的に作られた道があった。山・川などの自然に強く規制された山間地域では、谷間の道や鞍部の峠道、尾根づたいの道が生活道路として利用された。直線最短距離を基本とする官道も、近江から敦賀への七里半越えも、そのような生活道路を利用したのであろう。 |
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古代愛発の関 | |||
疋田村付近の小字 |
古代愛発(あらち)の関 文明年間(1463~87)近江方面からの進攻に備える越前最南端の城として、朝倉氏が疋壇城を築いている。疋田の地を防衛上の適地としてみていた。おなじ目的を持つ愛発の関をこの地に設けたと考えられる。疋田には「関の前」「大隅戸」「的場」「馬場の下」「大門」などの小字が残っている。(右図)これら小字は城砦や関の所在に関係する地名とも推察できる。また、関の所在地として、疋田に限らず、疋田から道口(丹後道・北陸道・敦賀道の分岐点)の間も視野に入れるべきだろう。大同元年(806)桓武天皇の死去に際して固関がなされた。これを最後に愛発関は資料で確認されなくなった。 |
恵美押勝の乱戦闘要図 |
恵美押勝の乱 『続日本紀』天平宝字八年九月十八日条に恵美押勝は精兵数十を遣わし愛発関に入ろうとしたとある。しかし、待ち構えていた物部広成の攻撃をうけて退却した。また、山道をとって愛発を指すとあるが、このときも佐伯伊多智の攻撃で越前国への侵入は果たせなかったのであった。この場合、最初に愛発関へ向かった道は西近江路であったと考えられ、二度目の試みは大浦から深坂越えで追分に出るルートであったと考えられる。 |
琵琶湖の水運 | |||
西近江路への七里半越え(現国道261)は深坂越えとともに、琵琶湖水運に結ぶ街道でもある。琵琶湖は、京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝でした。蝦夷などで取れた海産物を始め、北国諸藩からのたくさんの物資が敦賀港から各峠を越えて運ばれ、再び海津、大浦、塩津などの港で船積みされ、、湖上を丸子船で大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運こばれた。「上り荷」としてはニシン・海藻類・生魚・馬の鞍木など、またこのルートを逆に運ぶ(大坂・京都から若狭方面へ)「下り荷」としては綿・飴・醤油・酒樽・着物・反物・煙草など加工品が多く運ばれた。主要48浦(小さい港も含めると100以上)の中で大津、塩津は飛びぬけて多い。 | |||
七里半越えと結ぶ海津港 | |||
海津港 |
海津迎賓館 |
西与一左衛門による湖岸波除石垣(海津) |
大浦港 |
丸子船の館(大浦) | |||
丸子船模型(丸子船の館展示) |
大浦港ジオラマ(丸子船の館展示) 「丸子船の館」へリンク |
丸子船内部(丸子船の館展示) |