明治維新(1868年)、それは日本近代化のはじまりであり、交通の要にある敦賀も海運・陸運においても近代化への改革が進められた。また、西洋文明の流入によって、政治・教育面においても大きく変化していった。
廃藩置県と敦賀
  江戸期幕藩体制下では、福井県は越前国(嶺北地方)と若狭国(嶺南地方)二国であった。明治政府は地方行政の一元化、中央集権国家確立のために廃藩置県を断行した。しかし、この地でも試行錯誤的な変遷があり、最終的に明治14j年福井県が成立した。  
敦賀町の変遷 明治14年ごろの敦賀

博『越前国敦賀海陸図』

松浦武四郎『甲申日記』に見る当時の敦賀。
町名変更と戸長制 
明治4年 廃藩置県。敦賀県となる。
明治6年 敦賀県、足羽郡を合併
明治9年 敦賀県廃止、敦賀郡、若狭は滋賀県の管轄となる。越前7郡は石川県に編入。福井県消失の危機。
明治14年 越前・若狭の二国をもって福井県が成立する。 
明治5年区戸制が制定され、敦賀郡には大区と小区が置かれ,、中世以来の町名も変更、合併がおこなわれたが、一町六ケ村が成立した。
大区・小区一覧
「村と浦の歴史」近代の村と浦参照

博敦賀十勝
文明開化
  「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」,、明治新政府が推進した殖産興業や富国強兵・脱亜入欧などの一連の政策の推進や西洋建築・散髪、洋装、洋食などの奨励の結果による風潮を「文明開化」と称した。  
  初等教育の確立  
江戸期の就学率
江戸期に寺子屋による学問の指南が一般町人の間に定着しており、江戸時代ないし明治初期における日本の識字率は世界最高水準にあった。江戸における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70-86%といわれており、イギリスの主な工業都市で20-25%(1837年)であった。

敦賀の私塾・寺子屋
港町敦賀では、商業活動が多いことから、庶民は読み書きそろばんの手習いを求めるようになっていた。庶民の子弟を教える私塾、寺子屋が普及した。主たるものとして社家町の河端、平松、石倉家などが町方、村方の子弟を教えた。
太政官布告「学事奨励ニ関スル被仰出書」に学制の基本理念が語られている。学問は身を立てるための財本であり、言葉の暗記や真実のない空論に陥ることがないようと説き、四民を問わず「邑ニ歩不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナシ」とある。

博町立南尋常小学校

小学校推移表
明治5年 学制の頒布
学制頒布後、各府県では小学校の設立が相次いだ。敦賀では明治5年本勝寺を仮校舎として第17校区小学を設立し、翌年「就将学校」とした。その後相次いで学区が設定されて小学校が設立された。

『敦賀市史通史編(下)』より
 
  国家神道(信教の自由と祭政一致)   

教育ニ関スル勅語(教育勅語)
明治政府は旧幕府体制の変革・解体による矛盾を内包していた。従って、人心の慰撫が愁眉の課題であった。明治天皇の数次にわたる全国巡行もその一つであるが、国民道徳の確立を神道に求めた。すなわち、神道を宗教にあらず、として神道を宗教を超越した教育の基礎とされた。そして、大日本帝国憲法に明示されている「信教の自由」と矛盾しないとした。1889年の勅令第12号によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。翌1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、国家神道は宗教・政治・教育を一体のものとした
靖国神社が描かれている五拾銭紙幣
中央集権国家
   明治新政府は封建的な幕藩体制に基づく代表的君主制から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主制に移行させた。新たな制度で生じた矛盾を孕みながらも天皇を頂点とした中央集権国家をめざした。近代国家日本の建設には富国強兵・殖産興業が急がれた。  
天皇巡行 


敦賀の近代化
交通の要地にある敦賀は、明治政府の近代化政策によって 海運、陸運の面でいち早く近代化が進められた。
戦前敦賀港 敦賀の鉄道 道路の近代化
国民皆兵
明治政府は、「五箇条の御誓」の「天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。」の主旨ら六大巡行がおこなわれ、1878年8月30日~11月9日(明治11年)、北陸・東海道地方への巡行が行われ、気比の松原に駐輦された。政府の権威発揚と人心の安定を企図するものであった。
天皇巡行図
徴兵令は、1873年(明治6年)に制定され、国民の兵役義務を定めた。1927年(昭和2年)、兵役法に移行した。満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は後備軍とした。体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれ、また制度の当初、「一家の主人たる者」、、「代人料を支払った者」(当初は270円)は兵役免除されたが、農村の労働量不足は深刻化していった。

史跡 駐輦の碑(松原公園) 

徴兵検査
南朝の正統化 壬申戸籍  敦賀の身分変化  金融制度 
幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを理想とした。慶応4年4月21日、勅命によりそれまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。建武中興十五社の一社である金崎宮は恒良親王と尊良親王を祭神として明治23年(1890年)旧社格官幣中社として創建された。 身分制度の変化とともに、江戸期宗門改め帳による人口動態が把握されていた。(過去帳)維新後壬申戸籍(じんしんこせき)によるものになった。、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす。  江戸幕藩体制では、武士を上位にし、「百姓」と「町人」を並べるものであった。。幕末、敦賀では町民の身分は、打它家は士分待遇で町民の首席(代官)であり、続いて打它格、格式、扶持人、御免許、御用達そして平町人とさてていた。明治政府は皇族、華族、士族、平民の階層に再編成した。明治3年には平民にも苗字の呼称が許され、、明治5年には旧家格も廃止された。 明治4年旧幕府の貨幣制度(両・分・文)の通貨単位を旧幕府の貨幣制度(両・分・文)から通貨単位として円を導入。その後、明治15年通貨発行権を独占する日本銀行が設立された。金融面においても資本主義的金融制度の整備も進められた。

金崎宮
(敦賀市金ヶ崎町)

寺院用過去帳

打它家墓所(永巌寺)

新通貨「ⅰ圓」
敦賀の村と浦
  明治になって敦賀の村落は「地租改正」「町村制」「国民皆兵」によって大きく変わった。とりわけ地租改正は農村を大きく変容させた。それらの制度改革は、富国強兵、殖産興業の底辺を形成するものであり、平民への重圧でもあった。
 
地租改正 明治の町村 地主制
地租改正令は、1873年(明治6年)に制定され、江戸時代の田畑貢納制(年貢・田租)は物納で、しかもその課税基準・税率が藩ごとにまちまちであったものを統一するために地租改正を行い、新しい租税として導入された。明治政府が急ぐ近代国家の中枢財源であった。。地租改正は江戸時代の農人の土地保有に設けられたさまざまな制度を撤廃し、私的保有を確定するものである。表8「地租改正前後の反別・税額比較表(若狭・敦賀郡) 
」参照
近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。維新後。明治政府は1888年(明治21年)に市制及び町村制を公布し、自然村を合併し、行政の単位とした。(行政村)中央集権国家の基本単位であり、地租改正・地主制とともに、より下層庶民からの収奪のシステムにもなった。 明治期からの近代日本農村を特徴づけるなら、地主制である。地主の多くは貸金業も営み、これにより、農村内での貧富の差は一層拡大された。こうして獲得した富を商工業に投資し、近代的な資本家に転換していった者もいる。資本主義(弱肉強食)は農村からの収奪の構造であり明治後期、特に深刻化していった。
各村の自然村詳細
東浦村 中郷村  東郷村 愛発村  粟野村  松原村
『敦賀郡史』より

地券 『敦賀市史下』より

博 愛発山(敦賀十勝)
行政村
 

博敦賀町営朝市(現相生町)

博 金ヶ崎(敦賀十勝)
  漁 業  
 明治4年(1871)の廃藩置県以後、漁場の占有利用関係をめぐる新しい動きが全国で活発化していく。幕藩体制のもとで維持、管理されてきた漁業慣行が打破されていった。しかし、近世において、敦賀の漁業は先進性と大規模性を誇っていたが、明治期 、県内各地域の浦々に比してそれを喪失していった表77参照「明治14年の福井県の郡別漁船・漁業者数等」  

博敦賀水産株式会社の魚市場


昭和初期ごろの地引網風景(気比の松原)
  各浦の漁業権   
  明治8年の「海面官有宣言」によって明治政府は旧来の漁業占有利用権を一旦消滅させ、新たね許可によってそれを認可するものとした。。しかし、基本には近世以来の慣行である「地先漁場地元主義」があった。敦賀郡内の西浦(10浦)、東浦(4浦)敦賀町(大湊、天満、入船)の状況は表78「明治14年の敦賀郡の浦・町別収益・船数等」を参照。西浦は収益に於いて55・4%を占め、沓浦以北の浦々が盛んだった。また、一旦廃止された湾内中央境より東側の漁場を再び川東の漁師町の拝借場となったが、東浦の杉津、元比田、横浜の三か浦にも漁業権が認められた  
画像提供 博印 敦賀市立博物館提供 市印 敦賀市提供
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