敦賀の歴史は港の盛衰史ではあるが、敦賀の町を取り巻く浦々や村落は太古より形成され、敦賀港の盛衰に影響され、時代の生産力の向上とともに、営々と築かれ維持されてきた。また各集落は神社と寺院を護り、精神的支柱としてきた。また敦賀延には喜式神名帳(延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十に記載された式内社は43座を数え、古代における集落の形成を示している。 |
古代の集落 | |||
敦賀地域における集落の形成は遺跡や古墳によってその原初をみることができる。律令制下では、敦賀地域は越前国敦賀郡(こおり)の行政区となった。公地公民の原則は再生産性の向上とともに、階級分化が進み、農地増加のための墾田私有を認めたことによって荘園が生まれた。(初期荘園) |
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弥生期(一世紀)吉河古墳 | 遺跡・古墳に見る集落の形成 | 古墳時代 | |
敦賀で紀元一世紀頃の古墳である吉河古墳が発掘されている。吉河遺跡(敦賀市)は弥生時代後期の集落の様子を伝えている。集落外に大規模な墓域を定め、方形周溝墓(前方後円墳以前からの墳墓)が築かれていて、集落跡と墓域があわせて発掘された代表的弥生時代の遺跡といえる。集落内の住居跡の規模に差があること、方形周溝墓と土壙墓が併存すること、これらの諸点から集落内に階層分化の進んだことが推測される。『敦賀市史通史編』文献へ | 敦賀市域では、朝鮮半島から渡来人が多く流入したころの4~7世紀、古墳時代の古墳が多く発掘されている。その多くは敦賀平野と海を望む高所にあり、その麓の地域に集落が形成されていたと思われる。そのほとんどは中央権力ヤマト政権と関わるこの地の首長の墳墓であり、階層分化がより進んだことを示している。古墳時代の中期以降から半島の西浦地区の薬研谷横穴、沓横穴群などの古墳群があり、集落の成立をしめしている。 | ||
吉河遺跡 福井県教育委員会提供 |
明神山古墳から敦賀湾を望む 福井県教育委員会提供 |
中世の荘園と集落 | |||
日本の荘園は、奈良時代に律令制下で農地増加を図るために墾田私有を認めたことに始まる(初期荘園)。それまでの荘園は上級貴族や大寺社が独占的に租税収納権をもつ農地が公領の農地の中に散在しているに過ぎなかったが、これらの荘園整理令に際し、公領と荘園を識別して一国平均役を課することを容易にするため、荘園を一つの領域に統合する措置が行われた。ここに上級貴族や大寺社が派遣した荘官が、行政や徴税を国家から依託される、統治領域としての荘園が成立した。敦賀地域の集落も国衙領と荘園からの管理収奪のなかにあった、しかし、鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始め、室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族(青蓮院門跡)・寺社(気比社・西福寺)・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる。しかし、自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。戦国時代には戦国大名(朝倉氏)による一円支配が成立、最終的に羽柴秀吉の全国的な検地によって荘園は解体した。 ※古代から中世の行政区 律令制下において敦賀郡は越前国の下に置かれ、延喜式では郡の下に郷、郷の下に里がおかれた。しかし、荘園の発生進展によって、鎌倉時代になると、荘園、郡、郷、保などが並列する。 |
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野坂荘 鎌倉期 事実上皇室領と思われる。気比社には24丁5反120歩の水田が免田与えられる。南北朝期から室町期 天台宗山門三門跡のひとつ青蓮院門跡が本所職を相伝し領有。 西福寺への寄進 地頭山内氏から野坂荘内の田畑山林の寄進。また、荘内の各郷名主職からの寄進(櫛川・金山・木崎・砂流・野坂・莇野の各郷)16世紀後半、戦国大名朝倉氏が敦賀に進出によって減少 葉原保 建歴2年気比社領目録に葉原保、西福寺文書元亀3年4月寄進状に葉原保あり。平家物語には飯原庄と見える。後世新保、葉原、瀬河内、田尻、越坂、各村を葉原荘と称する。 五幡保 建歴2年気比社領目録に五幡保あり。現在の五幡浦。 |
平安中期以降の公領国衙領と荘園が混在していた。 |
大蔵荘 中世大蔵地区に文治2年(1186)には鳥羽天皇の祈願時である京都最勝寺の荘園があった。その荘園を北条時政の代官平勝定と常陸房昌明が横領したと最勝寺から訴えが出され、後白河院から源頼朝に解決の院宣が発せられた。室町期には大蔵荘は公家清閑寺家の家領となっている。その後宮中での抗争から家領は没収される。文政元年(1444)返還の願いを出したが、正親町持季に与えられていた。 莇野(あぞの)保 保は国衙領であるが、室町時代になると、守護やその家来の国人によって支配されることが多かった。莇野保の中に醍醐寺領があったが、応永33年(1426)の年貢算用状によると、82石収納の内、免田分(気比社分)として5石4斗1合など合わせて21石2斗分を差し引いた残りの61石5斗7升1合が醍醐寺分の定米となっている。また、莇野保は足利義教によって青蓮院の子院法輪院領として与えられていた。 |
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中世農村支配関係 | 一 揆 | ||
商品経済の発達、農業生産の向上、惣結合の強化によって、民衆が連帯して一揆が形成された。いわゆる、土一揆、また、土豪的武士や自治的惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成して行った一向一揆など、支配層に対する民衆の反抗という社会変動が起こった。 |
近世村落の確立(太閤検地) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦賀に残る太閤検地帳
『敦賀市史通史編上』より |
中世から近世 中世における国衙領、荘園混在から戦国大名による領国支配の流れの中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。そして、織田信長、豊臣秀吉による天下統一が進み、中世から脱皮し、近世へ移行していく。太閤検地は全国的な規模で統一された方法で行われ、それまでの中世的土地所有関係を整理した。また、検地によって「村」が行政多岐な単位として確立した。 太閤検地の基本方針 検地之基本方針は、従来の一反三六〇歩歩の町段歩制を廃し、一間(六尺三寸)四方を一歩とする一反三〇〇歩を採用し、地目は田、畑、屋敷地とし、田畑の地目について上、中、下の品位による斗代(石盛)を決定し、年貢米一石について口米二升ずつを徴収し、年貢収納および売買において、京升を使用することにし、さらに年貢納入の運送費は、、五里以内は農民負担、それを超える分は領主負担とする。検地条目の条項(検地帳奥書より |
斗 代 中世、田畑一段について何斗と定めた税率。江戸期においては上、中、下各等級の田畑一段ごとの公定標準収穫高。石盛(こくもり) 『太閤検地現存資料集・斗代』参照 小物成り 小物成(こものなり)とは、高外地に賦課された租税の総称。地域により多様な内容を持つ。また、一方、検地を受けて検地帳に登録された高請地に賦課された租税を本途物成(ほんとものなり}、本年貢・年貢ともいう)という。 『太閤検地小物成りの村高』参照 江良浦名寄帳にみる階層 中世の名主に系譜を引く右近、刑部太郎、 兵衛二郎、刀祢などの農民と、小規模な農場経営する農民とが混在している。中世において社会的にも経済的にも力を持たなかった下層民が自立してきている。 『江良浦名請人の土地所有』参照 |
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文禄3年「椎堂村検地帳」 |
近世の集落 | |||||||||||||||||||
太閤検地によって「村」が行政単位として確立し、江戸期において領主の村支配はいよいよ強くなり、農業、漁業生産への直接指導、管理まで及んだ。また、村内の階級構成も、中世の名主ー百姓ー所従・下人から本百姓と水呑み百姓と大別され、経済的、社会的に格差が固定していった。 | |||||||||||||||||||
近世敦賀郡村階層 |
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農村内部の変化と村方騒動 村の機構が確立していくなかで、年貢や夫役および村入用の割り付けなどについて、不正や不公平があるのではないかと疑いをもつ本百姓が現れ、帳簿の公開を庄屋に迫ったり、役所に訴えるようになる。いわゆる、村方出入り、村騒動がおこるようになった。初期有力農民の没落と隷属性の強い農民の本百姓化とあいまって、多くの庄屋が世襲性から輪番制となり、村行政を監視する本百勝の代表「百姓代」がおかれた |
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敦賀の新田開発 | |||||||||||||||||||
現中池見湿地 |
池見新田 池見新田は柴田権右衛門が開発を申請するが、藩の意向によって地元農民の開発となった。余座池見から始まった開発は、外池見に移った。本格的な開発は貞享元(1684)以降であった。開発の結果、本村である樫曲村の有力農民のほとんどが参加しているが、零細農民はほとんど参加できなかった。結果的に樫曲村の農民格差は拡大していった。 市野々新田 市野々村の開発は柴田権右衛門によって行われた。大洪水によって荒地になっていた櫛林村の開発から始まった。 年貢の増徴策をとる小浜藩が命じた。新田開発は、近世の安定した社会と農業土木技術を進展がもたらしたものであるが、多大な費用と労働力を要した。そのため、柴田家は藩権力と結び、その支援を受けて開発を遂行していった。 |
豪農柴田氏邸 |
近代の村と浦 | ||||||||||||||||||||||
明治政府は近代国家建設を急いだ。敦賀への鉄道敷設、日本海側の主要港として敦賀港を重要視した。他方、富国強兵のため国家財源の安定のため地租改正、帝国主義的強国確立のため徴兵制を断行した。その後、それら帝国主義、軍国主義は農村に加重な負担を強いていった。 | ||||||||||||||||||||||
農 業 | ||||||||||||||||||||||
地租改正 | 敦 賀 郡
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国民皆兵 | ||||||||||||||||||||
地券 『敦賀市史下』より |
徴兵令は、1873年(明治6年)に制定され、国民の兵役義務を定めた。1889年(明治22年)に全面改正され、1927年(昭和2年)、兵役法に移行した。満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は後備軍とした。 兵役免除 体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれ、また制度の当初、「一家の主人たる者」や「家のあとを継ぐ者」、「嗣子並に承祖の孫」(承継者)、「代人料を支払った者」(当初は270円、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」は徴兵免除とされた。 |
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江戸時代の田畑貢納制(年貢・田租)は物納でしかもその課税基準・税率が藩ごとにまちまちであったものを統一するために地租改正を行い、その結果に基づいて年貢・田租に替わる新しい租税として導入された。明治政府が急ぐ近代国家の中枢財源であった。課税率は当初3%だったが、農民運動や西南戦争の影響を受けて2.5%に引き下げられた。地租改正は江戸時代の百姓の土地保有に設けられたさまざまな制度を撤廃し、私的保有を確定するものである。納税額は改正前後ではあまり変化がなかった。表8「地租改正前後の反別・税額比較表(若狭・敦賀郡) 」参照 |
徴兵検査 |
地主と村落 | |||
江戸期、貨幣経済の進展に伴って、次第に困窮する農民が出てきていた。田畑永代売買禁止令では田畑の質入を禁止していなかったため、質流れと言う形で売買が行われ、地主と小作人の階層分化がすでにすすんでいた。明治期からの近代日本農村を特徴づけるなら、地主制である。地主の多くは貸金業も営み、これにより、農村内での貧富の差は一層拡大された。こうして獲得した富を商工業に投資し、近代的な資本家に転換していった者もいる。資本主義(弱肉強食)は農村からの収奪の構造である。明治後期特に発展期を迎える。 | |||
小作地率の推移 | 兼 業 | 地方改良運動 | 産業組合(信用組合) |
地主制度の進捗は小作率によって測れる。敦賀のそれは当時の平均を大きく上回り、福井県内では今立郡についで二番目である。日露戦争後の明治38年のの統計では57.1%から60.9%になっている。小作地を敦賀では「越石」と言った。表72「不在村地主の土地所有状況」参照 | 小作人、零細な自小作の農家は78%を占める農村では、生計を立てるため、副業にいぞんしなければならない。当時の統計によると、「兼業」とされているものが、明治38年から41年まで40%強を占めている。当時の敦賀の農家では、北前貿易に使う縄、筵が代表的であった。また、蔬菜(あおな)や果実の栽培に取り組む地域もあった。(東浦の蜜柑など)しかし、副業の肥料代、租税公課の負担などかさみ、必ずしも採算がとれるものではなく、零細農家、小作人の生活苦は進んだ。 | 農村の疲弊の克服、富国強兵の基礎を維持するため、政府は全国的に「地方改良運動」を展開した。明治41年(1908)10月戊申詔書発布して、始めた。税負担に耐えられる農村、地主・小作間などの軋轢を解消して安定した農村を目指した。この改良運動は必ずしも農民の生活を向上させるものではなく、むしろ富国強兵しいては戦争のためのものであり、農民の負担は以前として、過酷なものになった。 |
地方改良運動の中、産業組合法の成立で産業組合(信用組合)の組織化が進んだ。表74 以前から頼母子・無尽講などの勤倹貯蓄組合や販売・購入組合などが自発的に誕生していた。農村組合として組織され、そのため構成員も富裕な地主・上層農民が中心であった。組合からの資金用達は小作地の買い戻し、土地開墾、桑園仕立て、肥料購入などが主だった。零細農家や小作人が疲弊するなか、組合人の農業経営は活発化していき、村内、地主・小作人間の貧富の格差が広がった。 |
漁 業 | |||
浦底湾 福井県観光連盟素材集より |
明治四年(一八七一)の廃藩置県以後、漁場の占有利用関係をめぐる新しい動きが全国で活発化していく。幕藩体制のもとで維持、管理されてきた漁業慣行が打破されていった。敦賀湾の浦々においても同様の変化が行われた。従来、西浦を本浦として漁業権を認められ、東浦沿岸の漁業は敦賀町の漁師町に保護されていた。これに対して、湾内の中央線規制の廃止、東浦諸浦に漁業権が認められていった。 | ||
漁獲高の相対的低下 | 浦々の状況 | 漁業権の再編 | 各浦の漁業権 |
近世において、敦賀の漁業は先進性と大規模性を誇っていたが、明治期 、県内各地域の浦々に比してそれを完全に喪失していった表77参照「明治14年の福井県の郡別漁船・漁業者数等」 | 敦賀郡内の西浦(10浦)、東浦(4浦)敦賀町(大湊、天満、入船)の状況は表78「明治14年の敦賀郡の浦・町別収益・船数等」を参照。西浦は収益に於いて55・4%を占め、沓浦以北の浦々が盛んだった。町方の三か町は24・3&を占めるに止まる。単独の集落では松島村の18・7%が抜きんでている。 | 明治8年の「海面官有宣言」によって明治政府は旧来の漁業占有利用権を一旦消滅させ、新たね許可によってそれを認可するものとした。占有利用権はその水域を無条件によって自由利用できることではなく、特定の漁具、漁法による特定の魚種を対象とするものであった。しかし、基本には近世以来の慣行である「地先漁場地元主義」があった。 | 一旦廃止された湾内中央境より東側の漁馬を再び川東の漁師町の拝借場となったが、東浦の杉津、元比田、横浜の三か浦にも漁業権が認められた。西浦は地先が認められ、西浦・今浜・漁師町の相互入会について従来通りのなった。浦底湾は、延縄以外の入漁は認められなかった。 |
太平洋戦争前後 | |||
ニューヨーク・ウオール街の株価大暴落をきっかけに起こった恐慌は、 昭和5年(1930)の世界恐慌は日本にも波及した。農産物(繭・米)の価格下落、また都市における失業者の増加によって大量の帰農者を生み、出稼ぎの機会が激減て農村の恐慌を一層厳しいものにした。そして、日中戦争・太平洋戦争と戦時下体制の中、農村は戦争遂行のために多大な犠牲を強いられた。 |
世界恐慌 | 戦時体制 | ||
ニュウヨークウオール街の群衆 |
昭和恐慌下の農村(松原村) 恐慌下、財政難に陥った松原村の状況を見ると、村全体の収入は53万2710円、支出は93万3527円従って40万817円もの赤字を出している。(表115・表117)参照 松原村の経済更生運動 農業生産を米中心から多角化し、副業を進める。醤油を各自で作るなど現金支出を抑えることを奨励された。また、産業組合(信用組合)強化が図られた。しかし、これら更生運動はその成果はあまりあがらなかった 産業組合の発展 昭和恐慌下の産業組合は信用・販売・購買・利用の四種兼営が望まれた。しかし、事業内容は、昭和12年ごろまでは貯金と貸付のバランスがとれていたが、昭和16年には貯金が貸付を大きく引き離し(図12)貯金を上位機関に預金し、戦費調達のため国債として使われた。 |
戦時下農村の疲弊 満州事変・日中戦争以前より小作農民の疲弊は東北地方をはじめ深刻化していたが、太平洋戦争に至って農村の疲弊はきびしくなっていった。徴兵、徴用による中心労働力の不足、肥料などの不足、生計のひっ迫が著しくなった。また、財政的には、産業組合が軍事体制の強制的軍費収奪の対象になり、農村の財政は壊滅していった。 |
空 襲 |
被災地域(赤破線内) |
敦賀市中心地の焼け野原 |
農村の民主化(農地改革) | |||
農地被買収者国庫債券 |
悲惨な終戦を迎え、農村は疲弊の極に達していた。肥料、農機具の不足、労働力不足、それらに増して、外地からの引揚者、等々、稲作は壊滅的な状況で昭和10年前後の70%未満に落ち込み、深刻な食料危機に陥った。他方、GHQは都市における財閥解体とともに農村の民主化、すなわち農地改革を 強行した。しかし、農地改革は政治的には成功したかに見えた政策であったが、大規模経営が世界的に主流になる中で、土地の所有者が大幅に増加した日本の農業は機械の稼働能率が低く、先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。また都市化優先政策と食管制度温存による米優先農政により、次第に日本農業は国際競争力を低下させていくこととなる。[、 | ||
農創設特別措置法案他 | 小作地の解放見込み | 地主の抵抗 | 結果 |
二年間で不在地主の全貸付地と在地地主の全国平均の保有限度1ヘクタールを超過する貸付地を強制買収し、自作農創設を対象とする。また、小作料を水田25%、畑15%を最高小作料とする。 | 200万ヘクタールと見込まれ、昭和21年12月26日の農地調整法と自作農創設特別措置法の改正により牧野の解放、現在の事実に基づいて買収する遡及買収が追加され、農地改革はより徹底したものとなった。 | 抵抗形態としては、小作貸付地の脱法的取り上げ、法的根拠を持たない陳情、法的根拠を持つ異議申立、訴願、訴訟などがあった。敦賀においては地主勢力が強くなく、農地委員会は耕作者(小作人)の立場にたった運営が行われた。 | 農地改革による買収、売渡によって小作地は大きく変化した。(表148~150)その結果、地主的土地所有は解体され、戦後の農業発展の主体となる自作農が広範に出現し、耕作権も強化された。また、昭和23年には、戦時下の農業会にかわって敦賀市農業協同組合が設立された。土地改良主体も耕作者となったことで、生産者に有利になった。 |
戦後高度成長と集落 | |||
市街地の拡大 | 集落の高齢化と衰退 | ||
昭和30年代、戦後高度成長による全国的な都市化は敦賀でも例外ではなかった。大企業の新工場(東洋紡、呉羽紡の各ナイロン工場、永大産業)増設 と核家族化はスプロール現象を起こし、特に市の南西部の宅地化が進んだ。それは、農地保護への計画もなく進んだスプロール現象は、農地の衰微を意味した。表182参照 | スプロール現象は敦賀においては粟野地域の人口増に比して、市内旧市街、東西両浦、市の南部(疋田)などは人口減少 となっている。その内実は超高齢化であり、取りも直さず農地の荒廃、里山の放置となり、集落性の希薄化となっている。 | ||
旧市街地(商店街)の空洞化 | 専業農家の減少 | ||
スプロール現象は人口のドーナツ化現象でもあり、旧市街地の人口減少、加えて高齢化でもある。また、近世からの名残でもある縦長の地形と棟つづきの住宅が多く、現代生活に合わないことも空洞化の一因でもある。商店街も産業構造の変化とともに寂れていった。 | 市街化の推移 |
農地の減少、少子化によって専業農業経営が困難になり、現金収入のために、兼業農家がほとんどになった。このことは核家族化とともに、近世から結(ゆい)という集落内における相互協同関係も少なくなり、集落そのものの連帯意識も希薄になっていった。 | |
シャッターが散見する旧商店街 |
斜めに成ったままの扁額 |
参考資料 『敦賀市史』・『福井県史』・その他 統計資料 『敦賀市史』より転載 |