敦賀の歴史は港の盛衰史ではあるが、敦賀の町を取り巻く浦々や村落は太古より形成されていた。敦賀港の盛衰に影響され、また時代の生産力の向上とともに、営々と築かれ維持されてきた。各集落は神社と寺院を護り、精神的支柱としてきた。
古代の集落
敦賀地域における集落の形成は遺跡や古墳によってその原初をみることができる。律令制下では、敦賀地域は越前国敦賀郡(こおり)の行政区となった。律令制の原則は公地公民であったが、再生産性の向上とともに、階級分化が進み、農地増加のための墾田私有を認めた。それによって荘園が生まれていった。   
弥生期(一世紀)吉河古墳 遺跡・古墳に見る集落の形成 古墳時代 
敦賀で紀元一世紀頃の古墳である吉河古墳が発掘されている。吉河遺跡(敦賀市)は弥生時代後期の集落の様子を伝えている。集落外に大規模な墓域を定め、方形周溝墓(前方後円墳以前からの墳墓)が築かれていて、集落跡と墓域があわせて発掘された代表的な弥生時代の遺跡といえる。集落内の住居跡の規模に差があること、方形周溝墓と土壙墓が併存すること、これらの諸点から集落内に階層分化の進んだことが推測される。『敦賀市史通史編』文献へ 敦賀市域では、朝鮮半島から渡来人が多く流入したころの4~7世紀、古墳時代の古墳が多く発掘されている。その多くは敦賀平野と海を望む高所にあり、その麓の地域に集落が形成されていたと思われる。そのほとんどは中央権力ヤマト政権と関わるこの地の首長の墳墓であり、階層分化がより進んだことを示している。古墳時代の中期以降から半島の西浦地区の薬研谷横穴、沓横穴群などの古墳群があり、集落の成立をしめしている。
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吉河遺跡
福井県教育委員会提供

明神山古墳から敦賀湾を望む
福井県教育委員会提供
中世の荘園と集落
中世農村支配関係

野坂荘
鎌倉期 事実上皇室領と思われる。気比社には24丁5反120歩の水田が免田与えられる。南北朝期から室町期 天台宗山門三門跡のひとつ青蓮院門跡が本所職を相伝し領有。
西福寺への寄進 
地頭山内氏から野坂荘内の田畑山林の寄進また、荘内の各郷名主職からの寄進(櫛川・金山・木崎・砂流・野坂・莇野の各郷)16世紀後半、戦国大名朝倉氏が敦賀に進出によって減少
葉原保
建歴2年気比社領目録に葉原保、西福寺文書元亀3年4月寄進状に葉原保あり。平家物語には飯原庄と見える。後世新保、葉原、瀬河内、田尻、越坂、各村を葉原荘と称する。

五幡保
建歴2年気比社領目録に五幡保あり。現在の五幡浦。
日本の荘園は、奈良時代に律令制下で農地増加を図るために墾田私有を認めたことに始まる(初期荘園)。しかし、鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始め、敦賀地域の集落も国衙領と荘園からの管理収奪のなかにあった。室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族(青蓮院門跡)・寺社(気比社・西福寺)・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる。戦国時代には戦国大名(朝倉氏)による一円支配が成立、最終的に羽柴秀吉の全国的な検地(太閤検地)によって荘園は解体した。

平安中期以降の公領国衙領と荘園が混在していた。
大蔵荘
中世大蔵地区に文治2年(1186)には鳥羽天皇の祈願時である京都最勝寺の荘園があった。その荘園を北条時政の代官平勝定と常陸房昌明が横領したと最勝寺から訴えが出され、後白河院から源頼朝に解決の院宣が発せられた。室町期には大蔵荘は公家清閑寺家の家領となっている。その後宮中での抗争から家領は没収される。文政元年(1444)返還の願いを出したが、正親町持季に与えられていた。
莇野(あぞの)保
保は国衙領であるが、室町時代になると、守護やその家来の国人によって支配されることが多かった。莇野保の中に醍醐寺領があったが、応永33年(1426)の年貢算用状によると、82石収納の内、免田分(気比社分)として5石4斗1合など合わせて21石2斗分を差し引いた残りの61石5斗7升1合が醍醐寺分の定米となっている。また、莇野保は足利義教によって青蓮院の子院法輪院領として与えられていた。 
民衆の生活
商品経済の発達、農業生産の向上、惣結合の強化によって、民衆が連帯して一揆が形成された。いわゆる、土一揆、また、土豪的武士や自治的惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成して行った一向一揆など、支配層に対する民衆の反抗という社会変動が起こった。越前一向一揆
近世村落の確立(太閤検地)
敦賀に残る太閤検地帳
町名 検地月日   検地奉行  検地高 
(石)
表紙 奥書
津内村  7.15  長谷川以  1488.883
江良村    7.15  同上   39.421
市橋村  6.6  7.16  小掘正次  49.808
疋田村 6.8    同上   300.140
奥野村  7.16    同上   141.460
横浜浦 6.9  7.18  吉田益庵   278.390
沓 浦   7.18  7.18  木村由信   72.738
7.19  7.19 
名子浦  7.18    同上  19.903
色浜浦    7.18  同上  
原 村    7.19  同上  
大比田浦   7.19  吉田益庵   372.540
道口村  6.8  7.21  小掘正次   303.370
奥麻生村  6.7  7.21  同上  16.500
田尻村    7.21  不明  162.630
葉原村    7.21  同上  
浦底浦 8.16    同上  48.460
名子・原は条目のめ 葉原は『敦賀郡誌』より 
『敦賀市史通史編上』より
中世から近世
中世における国衙領、荘園混在から戦国大名による領国支配の流れの中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。そして、
織田信長、豊臣秀吉による天下統一が進み、中世から脱皮し、近世へ移行していく。太閤検地は全国的な規模で統一された方法で行われ、それまでの中世的土地所有関係を整理した。また、検地によって「村」が行政多岐な単位として確立した。
太閤検地の基本方針
検地之基本方針は、従来の一反三六〇歩歩の町段歩制を廃し、一間(六尺三寸)四方を一歩とする一反三〇〇歩を採用し、地目は田、畑、屋敷地とし、田畑の地目について上、中、下の品位による斗代(石盛)を決定し、年貢米一石について口米二升ずつを徴収し、年貢収納および売買において、京升を使用することにし、さらに年貢納入の運送費は、、五里以内は農民負担、それを超える分は領主負担とする。
検地条目の条項(検地帳奥書より 
斗 代
中世、田畑一段について何斗と定めた税率。江戸期においては上、中、下各等級の田畑一段ごとの公定標準収穫高。石盛(こくもり)
『太閤検地現存資料集・斗代』参照
小物成り
小物成(こものなり)とは、高外地に賦課された租税の総称。地域により多様な内容を持つ。また、一方、検地を受けて検地帳に登録された高請地に賦課された租税を本途物成(ほんとものなり}、本年貢・年貢ともいう)という。
『太閤検地小物成りの村高』参照

江良浦名寄帳にみる階層
中世の名主に系譜を引く右近、刑部太郎、
兵衛二郎、刀祢などの農民と、小規模な農場経営する農民とが混在している。中世において社会的にも経済的にも力を持たなかった下層民が自立してきている。

『江良浦名請人の土地所有』参照

太閤検地資料集

文禄3年「椎堂村検地帳」
 近世の集落
太閤検地によって「村」が行政単位として確立し、江戸期において領主の村支配はいよいよ強くなり、農業、漁業生産への直接指導、管理まで及んだ。また、村内の階級構成も、中世の名主ー百姓ー所従・下人から本百姓と水呑み百姓と大別され、経済的、社会的に格差が固定していった。
 近世敦賀郡村階層
享保敦賀郡村方表

各村詳細
敦賀津 野坂荘 武符郷 葉原庄
(敦賀町・近郊) (粟野・西浦) (中郷・愛発)  (葉原・東浦) 
『越前国名蹟考』より
農村内部の変化と村方騒動
村の機構が確立していくなかで、年貢や夫役および村入用の割り付けなどについて、不正や不公平があるのではないかと疑いをもつ本百姓が現れ、帳簿の公開を庄屋に迫ったり、役所に訴えるようになる。いわゆる、村方出入り、村騒動がおこるようになった。初期有力農民の没落と隷属性の強い農民の本百姓化とあいまって、多くの庄屋が世襲性から輪番制となり、村行政を監視する本百勝の代表「百姓代」がおかれた
江戸村高資料集
貸地地主と小作関係の定着
本百姓の多くは零細なものであった。凶作、年貢、生活費のために富裕の者から田畑を質入れし、そして返済できずに田畑を質流れにし、小作人となる本百姓が多くなった。藩は本百姓の没落は年貢収入の危機になることから、寛永20年(1643)「田畑永代売買禁止令」や質入れの条件を定めたりして小農民の保護を目論んだが、現実離れした政策は享保8年撤回された。その後、貸地地主と小作関係が定着・増大していった。

貸地地主と小作
  敦賀の新田開発   
池見新田地図
中池見湿地
池見新田
池見新田は柴田権右衛門が開発を申請するが、藩の意向によって地元農民の開発となった。余座池見から始まった開発は、外池見に移った。本格的な開発は貞享元(1684)以降であった。開発の結果、本村である樫曲村の有力農民のほとんどが参加しているが、零細農民はほとんど参加できなかった。結果的に樫曲村の農民格差は拡大していった。

市野々新田
市野々村の開発は柴田権右衛門によって行われた。大洪水によって荒地になっていた櫛林村の開発から始まった。 年貢の増徴策をとる小浜藩が命じた。新田開発は、近世の安定した社会と農業土木技術を進展がもたらしたものであるが、多大な費用と労働力を要した。そのため、柴田家は藩権力と結び、その支援を受けて開発を遂行していった。

豪農柴田氏邸
  近世敦賀の浦方   

漁業が産業として発展するのは近世に入ってからである。城下町など都市の形成や、農業生産の増大によって、水産物の消費市場が飛躍的に拡大したことによる。そして、必然的に漁労技術の向上を促し、各種網業が発達し、大量漁獲が可能になった。産業の専門化が進み、漁業、製塩業、廻船業、商業の構成による、敦賀町が一大港町となった敦賀町の中でも「生産は浦方、販売は町方」の分化が成立した。  
西 浦
敦賀湾の西側沿岸の西浦は、全体として純漁村であるが、名子浦から浦底浦までは網業と製塩業を兼ねる半農半漁的浦方であった。また、外海に臨む立石浦、白木浦は釣浦で、製塩も行わず、田畑を持たない無高であった。
東 浦
東浦は塩浜と呼ばれ塩業を主として、漁業への進出はほとんど許されなかった。西浦の本浦に対して端浦として、村方的性格を持っていた。東浦の沿岸漁業は川東にある両浜(川向御所辻子・川向唐仁橋)と呼ばれる漁師町の利用するところであった。

泉村と今浜村
敦賀町の両隣に位置する今浜(現松島町)と泉(現金ケ崎町)は浦方と町方両方の性格を持っていた。時には西浦・東浦に属し、また町方とも区別されていた。泉村は早くに塩業を止め、跡地を船揚場や材木置場にして、村方となった。また、今浜村も塩業を止め網漁を専業とし、町方での生鹿名の行商権と市場への直接出荷権が与えられた。もっとも、今浜村は村高734石もあり、村方としても大村であった。
船道三座
敦賀の船持衆で組織された船道三座は町船座・両浜漁舟座・諸浦座に分かれた。前二座は中世の舟座(川舟・河野座)を母体としている。三座の中枢部分は川中の町船座掌握し、魚市場の西町と連携していた。
船道三座の船数

 飢 饉
江戸期の三大飢饉(享保、天明、天保)のうち敦賀も例外ではなかった。農村の凶作と財政難に苦しむ小浜藩の年貢収奪の軋轢から農民一揆が頻発したが、財政難の藩は関係者の処罰など強硬策をとった。。他方、一部町方富裕層による貧民層に対する「施し」も行われた。また、飢饉の中、本百姓の没落、階層分化が進んだ。
 クリックで拡大図
天明飢饉之図より
『福島県会津美里町教育委員会所蔵』 

甚三郎の供養石仏
戒名「浄人寿源居士」

来迎寺野無縁塚

江州庵無縁塚
天明の飢饉
江戸期の飢饉では敦賀も例外ではなく、残されている資料から杉箸、刀根、疋田各村で見ることができる。
天明の打ちこわし一揆
天明の飢饉によって各村落から百姓が、敦賀町中で各商家を打ちこわし一揆を起こす。その頭領の一人として、杉箸村の甚三郎が捕縛され、来迎寺野で処刑された。池の河内から谷口村に通じる峠にひっそりと供養石仏がある。
天保の飢饉
農村において、本百姓の分解が一段と進み疲弊した。また、魚肥の使用が広まり、松前と交易する町方の船主や問屋は富の蓄積を進め、貧富の差が拡大していった「天保九戌戌年七月新建 永世七月十七日於当寺令修業施餓鬼供養者也」とある。
天保7,8年敦賀町でも850人ばかりの餓死者が出たが、身寄りのない者の死骸4,5百人を江州庵傍に埋めた。
近代の村と浦
  明治政府は近代国家建設を急いだ。敦賀への鉄道敷設、日本海側の主要港として敦賀港を重要視した。他方、富国強兵のため国家財源の安定のため地租改正、帝国主義的強国確立のため徴兵制を断行した。その後、それら帝国主義、軍国主義は農村に加重な負担を強いていった。  
地租改正
各村の集落詳細
東浦村 中郷村   東郷村 愛発村   粟野村  松原村
『敦賀郡史』より
国民皆兵
地租改正令は、1873年(明治6年)に制定され、江戸時代の田畑貢納制(年貢・田租)は物納で、しかもその課税基準・税率が藩ごとにまちまちであったものを統一するために地租改正を行い、新しい租税として導入された。明治政府が急ぐ近代国家の中枢財源であった。。地租改正は江戸時代の百姓の土地保有に設けられたさまざまな制度を撤廃し、私的保有を確定するものである。表8「地租改正前後の反別・税額比較表(若狭・敦賀郡) 
」参照
徴兵令は、1873年(明治6年)に制定され、国民の兵役義務を定めた。1927年(昭和2年)、兵役法に移行した。満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は後備軍とした。体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれ、また制度の当初、「一家の主人たる者」、、「代人料を支払った者」(当初は270円)は兵役免除されたが、農村の労働量不足は深刻化していった。

地券 『敦賀市史下』より

敦賀町営朝市(現相生町)
敦賀市立博物館発行
図録『古写真が語る敦賀』から
 地主制
明治期からの近代日本農村を特徴づけるなら、地主制である。地主の多くは貸金業も営み、これにより、農村内での貧富の差は一層拡大された。こうして獲得した富を商工業に投資し、近代的な資本家に転換していった者もいる。資本主義(弱肉強食)は農村からの収奪の構造である。明治後期、特に発展期を迎える。
  漁 業  
 明治4年(1871)の廃藩置県以後、漁場の占有利用関係をめぐる新しい動きが全国で活発化していく。幕藩体制のもとで維持、管理されてきた漁業慣行が打破されていった。しかし、近世において、敦賀の漁業は先進性と大規模性を誇っていたが、明治期 、県内各地域の浦々に比してそれを完全に喪失していった表77参照「明治14年の福井県の郡別漁船・漁業者数等」  

敦賀水産株式会社の魚市場
敦賀市立博物館発行
図録『古写真が語る敦賀』から 


昭和初期ごろの地引網風景(気比の松原)
  各浦の漁業権   
  明治8年の「海面官有宣言」によって明治政府は旧来の漁業占有利用権を一旦消滅させ、新たね許可によってそれを認可するものとした。。しかし、基本には近世以来の慣行である「地先漁場地元主義」があった。敦賀郡内の西浦(10浦)、東浦(4浦)敦賀町(大湊、天満、入船)の状況は表78「明治14年の敦賀郡の浦・町別収益・船数等」を参照。西浦は収益に於いて55・4%を占め、沓浦以北の浦々が盛んだった。また、一旦廃止された湾内中央境より東側の漁馬を再び川東の漁師町の拝借場となったが、東浦の杉津、元比田、横浜の三か浦にも漁業権が認められた  
太平洋戦争・農村の民主化
  昭和恐慌下、農業生産を米中心から多角化し、副業を進める。醤油を各自で作るなど現金支出を抑えることを奨励された。また、産業組合(信用組合)強化が図られた。産業組合は信用・販売・購買・利用の四種兼営が望まれた。しかし、事業内容は、昭和12年ごろまでは貯金と貸付のバランスがとれていたが、昭和16年には貯金が貸付を大きく引き離し貯金を上位機関に預金し、戦費調達のため国債として使われた。そして終戦、戦後GHQによって農村の民主化が断行されていった。
  農村の民主化(農地改革)  

農地被買収者国庫債券 
悲惨な終戦を迎え、農村は疲弊の極に達していた。肥料、農機具の不足、労働力不足、それらに増して、外地からの引揚者、等々、稲作は壊滅的な状況で昭和10年前後の70%未満に落ち込み、深刻な食料危機に陥った。他方、GHQは都市における財閥解体とともに農村の民主化、すなわち農地改革を 強行した。しかし、農地改革は政治的には成功したかに見えた政策であったが、大規模経営が世界的に主流になる中で、土地の所有者が大幅に増加した日本の農業は機械の稼働能率が低く、先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。また都市化優先政策と食管制度温存による米優先農政により、次第に日本農業は国際競争力を低下させていくこととなる。  
農創設特別措置法案他 小作地の解放見込み   地主の抵抗 結果
二年間で不在地主の全貸付地と在地地主の全国平均の保有限度1ヘクタールを超過する貸付地を強制買収し、自作農創設を対象とする。また、小作料を水田25%、畑15%を最高小作料とする。  200万ヘクタールと見込まれ、昭和21年12月26日の農地調整法と自作農創設特別措置法の改正により牧野の解放、現在の事実に基づいて買収する遡及買収が追加され、農地改革はより徹底したものとなった。 抵抗形態としては、小作貸付地の脱法的取り上げ、法的根拠を持たない陳情、法的根拠を持つ異議申立、訴願、訴訟などがあった。敦賀においては地主勢力が強くなく、農地委員会は耕作者(小作人)の立場にたった運営が行われた。  農地改革による買収、売渡によって小作地は大きく変化した。(表148~150)その結果、地主的土地所有は解体され、戦後の農業発展の主体となる自作農が広範に出現し、耕作権も強化された。また、昭和23年には、戦時下の農業会にかわって敦賀市農業協同組合が設立された。土地改良主体も耕作者となったことで、生産者に有利になった。
戦後高度成長と集落
市街地の拡大   集落の高齢化と衰退
昭和30年代、戦後高度成長による全国的な都市化は敦賀でも例外ではなかった。大企業の新工場(東洋紡、呉羽紡の各ナイロン工場、永大産業)増設 と核家族化はスプロール現象を起こし、特に市の南西部の宅地化が進んだ。それは、農地保護への計画もなく進んだスプロール現象は、農地の衰微を意味した。表182参照 スプロール現象は敦賀においては粟野地域の人口増に比して、市内旧市街、東西両浦、市の南部(疋田)などは人口減少 となっている。その内実は超高齢化であり、取りも直さず農地の荒廃、里山の放置となり、集落性の希薄化となっている。
旧市街地(商店街)の空洞化   専業農家の減少
スプロール現象は人口のドーナツ化現象でもあり、旧市街地の人口減少、加えて高齢化でもある。また、近世からの名残でもある縦長の地形と棟つづきの住宅(町屋造り)が多く、現代生活に合わないことも空洞化の一因でもある。商店街も産業構造の変化とともに寂れていった。
市街化の推移
農地の減少、少子化によって専業農業経営が困難になり、現金収入のために、兼業農家がほとんどになった。このことは核家族化とともに、近世から結(ゆい)という集落内における相互協同関係も少なくなり、集落そのものの連帯意識も希薄になっていった。

シャッターが散見する旧商店街

斜めに成ったままの扁額
参考資料 『敦賀市史』・『福井県史』・その他
統計資料 『敦賀市史』より転載
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