越前一の宮、気比神宮は神代よりあって、その神人は北は佐渡、西は山陰地方にまで広がっていた。気比社は越前国国府(府中)と相対して、独立的な勢力となっていた。平安期正一位勲一等に昇格、明治には官幣大社となり鎮護国家の社として歴史を歩んできた。敦賀の人々は「気比さん」と呼称し、敦賀の歴史は気比神宮と共にあった。 |
祭神と説話 | ||||
応神天皇(誉田列命) (『集古十種』より)
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主祭伊奢沙別命(通称氣比大神)は二千有余年の昔神代から此の地に鎮り給うた。大宝二年(七〇二)勅に依り社殿の修営を行ない仲哀天皇神功皇后を合祀した。また日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。 | 神功皇后と武内宿禰 (歌川国貞画) |
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伊奢沙別命 | ||||
伊奢沙別命(気比大神)は、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記されている。海産物朝貢地敦賀の性質を反映している。上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると推定できる。 | ||||
仲哀天皇(帯仲体彦命) | 神功皇后(息長帯姫命) | |||
『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12、13、14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。 | 仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場では実在の人物として教えていた。敗戦後にGHQの指導の下で教科書から一斉に削除された。現在では実在説と非実在説が並存している。 | |||
三韓征伐 | ||||
神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。神功皇后は気比社の下社だった常宮神社より日本海山陰地方をたどり九州に至った説話がある。 |
境内摂社・末社 | |||
鹿角神社 祭神 都怒我阿羅斯等 |
式内村社 大神下前神社 祭神 大己貴命(おほなむち) |
猿田彦神社 祭神 猿田彦命 |
末社兒宮(このみや) 小児の守神 伊弉册尊 |
敦賀の地名由来になった渡来人ツヌガアラシトを祀る摂社角鹿(つぬが)神社は『延喜式神名帳』に小社として記載されている。古く政所神社とも称し、また正安3年(1301年)までは境内の表口であったことから門神(かどかみ)とも称された。 | 元天筒山麓に鎮座し、気比神宮の境外末社。金刀比羅大神、稲荷大神を合祀して、祭神三座。明治44年鉄道敷設のため気比神宮境内に奉設した。 | ||
市立北小学校校庭にある土公さん |
神明社(内宮・外宮) |
境内摂社群 摂社伊佐々別神社伊佐々別神社(伊奢沙別命荒魂) 末社擬領神社(稚武彦命) 式内摂社天伊弉奈彦神社(第七之王子宮:伊佐奈彦神) 式内摂社天伊弉奈姫神社(第六之王子宮:天比女若御子神) 式内摂社天利劔神社(第五之王子宮:天利劔大神) 末社鏡神社(第四之王子宮:神功皇后宝鏡・天鏡尊) 末社林神社(第三之王子宮:林山姫神) 末社金神社(第二之王子宮:素盞嗚尊) 末社劔神社(第一之王子宮:姫大神尊) |
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土公(気比宮古殿地) 古来より「触るべからず、畏み尊ぶべし」と気比社記にあり、天筒山に霊跡を垂れ、気比大神が降臨した地とする。伝教大師、弘法大師が祭壇を設け、7日7夜の修業をなしたと伝えられている。大宝2年(702)気比神宮造営以前はここで祭祀が営まれた。土公は陰陽道の土公神の異称。 (案内板より) |
神明社 天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社。通称「お伊勢さん」と呼ばれる。天照大神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、古代においては王家の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止されたが世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになった。 |
境内より気比大神降臨の地天筒山を望む |
気比社の歴史 | |||
気比社は祭神や説話から、海にかかわる海神の在地神であったと推定できる。そして、気比大神と応神天皇が名前を交換したという易名説話から、ヤマト政権下に組み込まれ、その後北陸の総鎮守府社として神階を高め,寛平元年(889年)正一位勲一等 (『日本紀略』となった。古代における隆盛は、中世南北朝争乱においては、大宮司気比氏治や社家は南朝方に参加し敗れ、織田信長の越前国支配などによって大きく社勢を衰えさせた。社領の没収(気比の松原など)、社家、社僧の離散などが行われた。 |
古 代 | 中 世 | ||
神階の変遷 天平3年(731年)従三位 (『新抄格勅符抄』)・承和2年(835年)正三位勲一等 (『続日本後紀』)・ 承和6年(839年)、従二位勲一等 (『続日本後紀』) ・嘉祥3年(850年)、正二位 (『日本文徳天皇実録』) ・貞観元年(859年)、従一位勲一等 (『日本三代実録』) ・寛平元年(889年)正一位勲一等 (『日本紀略』 |
社領 持統天皇6年(692年)封戸20戸が増納(日本書紀)・天平2年(730年)封戸200戸・天平神護元年(765年)44戸が追進(新抄格勅符抄他) 社殿 延喜の制で7座全てが名神大社に列す・大宝2年(702年)文武天皇の命で社殿修造・霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂が夢告によって気比神宮寺を建立(武智麻呂伝) 社領は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた。 |
社領の荘園化 平安時代末期以降には社領が荘園化して、鳥羽院本家として皇室領になる。末期以降には荘園化して、美福門院、八条院など経て、後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられた。社領の範囲は敦賀郡を中心として越前国内を加え、敦賀港、三国港などの要港、越中、越後までの一部に及んだ。作田267町余、別当※1700石余、さらに請加米を加えると2111石となった。配分の内訳は本家分702石、領家分292石、大宮司は177石であったという。しかし、気比社は越前国国衙とは一定の独立する勢力であった。 |
室町時期気比社古絵図 |
総参祭 | |||
毎年7月22日、気比神宮の御祭神・仲哀天皇を納めた船神輿が海を渡って気比神宮の元奥宮であった常宮神社の神功皇后に逢いに行く神事。 | |||
船神輿 |
敦賀港から常宮神社に向かう神輿船 |
船神輿行列 |
境内点描 | ||||
絵馬殿 絵馬殿に現存する戦前の奉納額 |
松尾芭蕉像 |
幡掛松(大正~昭和)
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お砂持ち神事 承安3年(1301)時宗2代目遊行上人他阿真教が敦賀に滞在中、気比社の西門前参道は沼地(東の入り江)にあり、参拝者が難儀していた。それをを知った上人は、自ら浜から砂を運び改修した。現代もこの神事は続けられている。元禄2年松尾芭蕉は「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んだ。 |
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芭蕉敦賀を訪れる。 1689(元禄2)年8月14日、芭蕉は等哉を同道して、木の芽峠から敦賀に入り、出雲屋という旅宿に泊まり、気比神宮、海路色ケ浜本隆寺を訪れる。 敦賀で詠んだ俳句 ○月清し遊行の持てる砂の上 ○名月や北国日和定めなき ○寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋 ○波の間や小貝にまじる萩の塵 |
神楽通り交差点モニュメン |
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長命水 |
社務所(旧裁判所移築) |
気比神宮の例大祭は例年9月2日から15日。気比さんの長祭として知られる。その間2~4日に敦賀祭が催される。 | ||||||
各町内神輿 境内露店 |
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各企業カーニバル 各企業カーニバル |
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境内露店 |
市民民謡踊り大会 |
夜 店 |
常宮神社 | |||
神功皇后の「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」との神託に因ると伝え、古くは「つね(の)みや」と訓読されていたが、中近世から音読されるようになり、明治元年(1868年)に現在の社名に決定した。気比神宮との関係は、古くは氣比神宮を「口宮」、「ひもろぎの宮」、「上社」と称すのに対して、当社をそれぞれ「奥宮」、「鏡の宮」、「下社」と呼応した。 | |||
本 殿 |
海側に県道ができる以前の拝殿(気比神宮に向かっている) |
中門から本殿 |
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朝鮮鐘 新羅時代の梵鐘の遺品は、日本に5例、韓国でも6例が現存している。この鐘は日本に伝わっているものとしては一番古く、唯一つ国宝に指定されている。銘文から9世紀後半に作られたこと思われる。。社伝によると、この鐘は、16世紀末頃、敦賀領主であった大谷吉継が、豊臣秀吉の命を受けて常宮神社に寄進したものとされているが、それ以前に倭寇(わこう)によってもたらされたものだという説もある。 |
国宝 朝鮮鐘 |
天八百萬比咩命は上古より養蚕の神として霊験あらたかに此の地に鎮まり給い、今から約二千年前、仲哀天皇の即位二年春二月に天皇、皇后御同列にて百官を率いて敦賀に御幸あり笥飯の行宮(気比神宮)を営み給うた。その後天皇は熊襲の変を聞こし召され、紀州へ御巡幸せられ陸路山陽道を御通過、山口県へ向はせ給う。皇后は二月より六月まで此の常宮にとどまり給い、六月中の卯の日に海路日本海を御渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会遊ばされ給うた。此の由緒を以って飛鳥時代の大宝三年(七〇三年)勅を以って神殿を修造し、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・日本武命・玉妃命・武内宿禰命を合わせまつられた。爾来、気比神宮の奥宮として一体両部上下の信仰篤く小浜藩政まで気比の宮の境外の摂社として祭祀がとり行われた。明治九年社格制度によって県社常宮神社となって気比神宮より独立した。 神社案内より |