三成と同僚であった敦賀の城主大谷刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)吉継(吉隆)はそうゆう判断力はきわめてするどい人物とされていたが、三成に乞われ、負けを見こして西軍に加担した。友情だけが動機であったことはあきらかであり、かつ、友情という、この明治以降に輸入された西欧くさい道徳が、明治以前の日本史に登場する数少ない実例として彼の名は記憶されねばならない。司馬遼太郎著『歴史を紀行する』文春文庫さわやかな近江の武将たち |
敦賀城主・従五位下大谷刑部少輔吉継 | |||
織田信長、豊臣秀吉の天下統一につれ、商品流通はより大量、全国的になり、日本海海運の拠点である敦賀湊はその重要性を増しいった。商業の拡大によって泉州の堺商人のように、豪商が時の権力と密接に繋がった。近世敦賀湊も日本海側で同様な軌跡をたどっていた。前敦賀城主蜂屋頼隆の後、秀吉奉行衆の大谷吉継が敦賀城主に赴任する。それは豊臣秀吉の商業主義が行った人事でもあった。 |
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大谷吉継 落合芳畿(別名歌川芳畿)画 ウィキペデイアより |
近世敦賀の幕開けー大谷吉継と敦賀 | 伝 大谷吉継供養塔(永賞寺境内) |
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天正17年(1589)から慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで、11年の在任中、殆ど秀吉の小田原征伐、朝鮮の役などに従軍、各地の検知に奔走しつつ、敦賀城築城、敦賀の町割りを引き継ぎ進めた。吉継は豪商や西福寺に各種禁令、許認可を行い、敦賀の内政に注力した。石田三成が堺奉行を命ぜられた時、吉継はその傘下で働いた。その経験が、敦賀湊の行政に活かされたものであった。在任期間の後半、持病(ハンセン病とつたえられる)の悪化もあって、敦賀に常駐した。 文禄3年(1594年)に伏見城(指月山伏見城)が築城された際、用材「太閤板」は、敦賀の豪商道川氏一族道川兵二郎の船で秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、同じく道川一族の越後屋兵太郎は吉継に船を提供している。このほか高嶋屋伝右衛門らの高嶋屋一族も特権を認められて吉継に協力した |
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大谷吉継菩提寺 永賞寺(敦賀市栄新町) |
来迎寺(敦賀市松島町)に残る敦賀城中門 |
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外岡慎一郎著敦賀論叢 第15号 |
敦賀城発掘調査 | |||
平成21年11月より同22年3月、敦賀城があったとされている敦賀市結城町市立西小学校の建て替えに際して、発掘調査が行なわれた。天主閣そのもののを確定する礎石、埋没物は見つからなかったが、敦賀城の何らかの施設もしくは同時代の建物が確認された。また、埋没遺跡は良好な状態であり、他地域の発掘で新たな発見の可能性が確実になった。 |
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出土物と年代 14末~15中葉 越前焼すり鉢 16世紀中葉~末 天目茶碗、輪花皿 17世紀 灯明皿、染付磁器、軒丸瓦など 地層 湿地帯層 室町時代以前 西の入江につながる湿地帯 炭・瓦混在層 戦国期 敦賀城築城により整地された。 |
結城町 大谷吉継によって敦賀の町割りが行なわれ、この川西地区に行政の中心ゾーンがおかれた。敦賀城、江戸期は奉行所、お茶屋(小浜藩主の滞在施設)、戦前までは裁判所が置かれた。また、結城町の町名由来は、関ヶ原後越前北庄67万石に封ぜられた結城秀康による。 |
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瓦類出土物 |
「江戸期町絵図」からの結城町 |
結城町歴史案内碑 |
焼け落ちた瓦の層 |
関ヶ原の戦いと大谷吉継 | |||
慶長5年(1598年)8月秀吉死去、その後吉継は徳川家康に次第に接近する。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が流れた際には、加藤清正や福島正則など豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ、家康を警護している。その後、宇喜多家中の紛争も調停している。慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率いて上杉討伐軍を起こした。家康に接近していた吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立つ。途中、北陸道から中山道に入る時、石田三成の居城佐和山城に立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとした。しかし、三成から家康に対する挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが。 | |||
吉継は、なぜ西軍に参陣したか | |||
”賭け!” 竹姫(大谷吉継の娘・真田幸村の妻)は心中で呟き、はっとする。父形部の生き方に繋がるからだった。 長い間竹姫は、父が石田三成に加担したのは、彼等の”友情”だと思い込んできた。・・・・(中略)・・・・・”どうせ長くない生命だ。三成にくれてやろう” 吉継は天に自分の運命を賭けた。吉継を「不吉なり」と吉隆に改め、九分九厘勝目のない戦の一厘の僥倖に賭けたのである。そして幸村も。 阿井景子著『真田幸村の妻』よりP306~7光文社時代小説文庫 |
大谷吉継・石田三成会談 石田会館展示「石田三成公一代絵巻」より |
「大谷さま」(島)左近が、その時、小声で、耳元へささやいた。「信州上田の真田さま父子も、われわれに加担して下さると、お約束をいただきました」「なに真田が…」幸村は、娘婿だけに吉継も聞き捨てにはできぬ話だ。…(中略)…業の深い病魔に犯され、次第に五体をむしばまれてゆくわが身の行く末を考えたとき、「どうせ、死ぬ身なら、徳川の尻尾について、残り少ない余生を保つより、友のために、ここで命を投げ出すべきではあるまいか」その思いも強まってくるのである。…(中略)…「致し方がない、やはり、あの男(石田三成)を見捨ててはおけぬ。一緒に死んでやろう」と、決意を固めた。すでに、勝敗を超越した、その決意だった 佐竹申伍著『島左近』P416~418 PHP文庫 |
石田三成との友情(衆道?) | 武断派(尾張)と吏僚派(近江) | 婚姻関係 | 国大名の西軍参加 |
吉継は忌み嫌われていた癩病(ハンセン病と思われるが)を患っていた。ある茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回す回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。また、吉継と三成が衆道(男色・若衆道)関係であった説もある。友情=衆道が戦国の出処進退を決したとは思われないが。 | 秀吉亡き後、関ヶ原の戦いは豊臣政権下で生じた武断派と吏僚派の分裂抗争が内実であった。家康に接近していたとはいえ、吏僚派の一員として活躍してきた吉継は武断派とともに同僚ともいえる近江派の武将たちと戦うことができなかった。また、家康のこの内部分裂を利用した政権奪取の謀略を見通し、秀吉恩顧に応えた。 | 毛利輝元を総大将として、宇喜多、小早川、島津、長宗我部など西国大名の参加によって全く無謀な挙兵ではなくなった。東軍から西軍の各将への調略・西軍の消極性が東軍に勝利をもたらしたが、開戦時兵数は東西互角であり、陣構えの配置はむしろ西軍が勝っていた。 |
関ヶ原前夜ー浅井畷の戦い | |||
大谷吉継の北陸計略 | 浅井畷の戦い | ||
大谷吉継は西軍に与することを決した後、一旦敦賀に帰還した。東軍に加わった前田と利長を牽制すべく越前・加賀の諸大名を調略していった。丹羽長重、山口宗水など多くの大名を味方にすることに成功した。それにたいして、前田利長は丹羽長重の小松城を攻めるも落せず、大聖寺掾の山口宗水を攻めた。山口宗水・修弘父子は敗れて自刃した。しかし、吉継は得意の「偽情報」を発して、前田利長を動揺させた。偽情報の内容は、上杉景勝が越後を制して加賀をを背面から攻めること、西軍は伏見城を落して畿内制圧し、大谷吉継をして加賀に攻めること、大谷軍別働隊が海路から金沢城を攻めること、などである。他方、捕虜になっていると利長の妹婿中川光重に「今度大軍を催され、近国を打あびけ、上方発向有之由聞候。是に因り大軍、敦賀表に出張す。云々・・・・・・」と、利長に書かせた。これによって利長は軍を金沢城に引いた。 | 慶長5年(1600)7月26日前田利長は2万5千の兵を率いて小松城の丹羽長重を攻めた。丹羽軍は3000名はどであったが堅城に守られ落ちなかった。利長は矛先を変えて大聖寺の山靴宗水・義弘を攻め、自刃させた。しかし、大谷吉継の「偽情報」によって金沢城に撤退した。 | ||
浅井畷の戦い古戦場石川県小松市大領町() 古戦場内石碑に「松風や慶長の夢雁がなく」とある。 |
霧も薄くなってきた午前8時ごろ、井伊直政は福島隊の前方へ張り出し、西軍の主力である宇喜多秀家隊に向けて発砲、対する宇喜多隊も直ちに応射。ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。。福島隊や加藤隊、井伊隊などの東軍部隊が宇喜多隊に突撃した。石田三成隊には黒田長政隊、細川忠興隊が、やや遅れて大谷吉継隊には藤堂高虎隊、京極高知隊が、小西行長隊には田中吉政隊、織田有楽斉隊がそれぞれ攻めかかる。三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げる。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万3,000ほどながら、戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、それら諸軍は動かなかった。島津は応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた。小早川秀秋の裏切り 正午過ぎ、小早川秀秋は家康の督促に意を決し松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返った。大谷吉継は、秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。戦局は一変、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。。ここに、関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。西軍敗走 宇喜多隊はしばらくもちこたえるも、3倍以上の東軍勢の前に壊滅。小西隊は早々と敗走し、石田隊も最後まで持ちこたえたが壊滅した。こうしたなか、、いわゆる島津勢の「敵中突破退却戦」が開始される。 |
大谷吉継陣跡 古来山中城と言われた要害に造られた。(下は八幡神社) |
大谷吉継墓 関ヶ原宮上・敵方藤堂高虎が建てた |
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契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はあり
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大谷吉継プロフィール | |||
大谷吉継のプロフィールを語るに余りも確かな史料が少なく、数少ない史料からの推測、比定によるものが多い。また、時代状況からも多く推定によるものも多い。 |
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出自諸説 | |||
近江国小谷(おおたに)説 | 在原氏説 | 伊香郡神社誌 | 大友義鎮(宗麟)の家臣説 |
江戸期の近江地誌『淡海温故録』に「大谷形部小輔此村の出生也。若名慶松と言う。秀吉公御在城の頃召出され段々立身の後、若狭小浜城主(敦賀城主の間違い)大名となり、関ヶ原後に石田方に与し滅亡す。」とある。現在。祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)第15代応神天皇である | 在原行平を遠祖とし、行康のとき近江国坂田郡司となり、以後、その子孫が近江で繁栄することとなった。行康六代の孫行綱は、朝妻に住み朝妻氏を称し、その子行吉は朝妻から大谷十郎を名乗った。これが大谷氏のはじまりとされる。吉房の時、六角義賢に仕えたといわれ、その子が吉継で、義隆ときされることが多い。 | 滋賀県伊香郡余呉町大字小谷である。集落に八幡神社が鎮座している。社伝によると、文治年間(1185~90)。大谷十郎行吉と称する武士が当村に来住し、八幡大神を勧請して御供田を寄進した。収穫した米を神饌としたので、その地を御田谷(みたたに)と称したが、慶長年間(1598~1615)、大田谷と書きかえた。また、この地を大谷村とも称していた。のちに小谷村と改め、そのまま「おおたに」と呼称している。「伊香郡神社史」 | 豊後臼杵城(大分県臼杵市)主大谷盛治の子と伝える。大谷家は桓武天皇の血をひく平貞盛の後裔、大谷盛胤の子孫とされるが、大友宗麟の家臣に大谷盛治という武将はいない。一説に豊臣秀吉の隠し子ともされるが、俗説の域で信用できない。 |
現 滋賀県長浜市余呉町小谷 |
小谷集落八幡神社 |
近江テクノラート武将 | |||
近江の先進性 京に隣接して、琵琶湖の水運を持つ近江の国、近江商人の国、織田、豊臣政権下では多くの能吏な武将を輩出した。損得勘定という現実的な思考の近江商人と共通した資質を持つ武将達である。また、損得勘定という現実性と合わせて、ある気節(気概があって、節操の固いこと}も見られる。、農業経済から商品経済が進む信長、秀吉政権時代,、近江の国はその地理的位置から先進性を持ち、民度の高い地域になっていた。浅井長政(朝倉氏との盟約の義を重んじる)、石田三成、大谷吉継などの観念的価値を重んじる武将が出る風土も醸成されていたと推測できる。 |
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秀吉の近江人材発掘 | 秀吉との出会い | ||
長浜城 |
織田信長は越前朝倉氏、北近江浅井氏を滅ぼし、天正元年(1573年)、羽柴秀吉を浅井氏の旧領北近江三郡に封じた。秀吉は、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。時代はより大きな軍団を機動させる兵站の充実と、それを可能にさせる能吏な人材を必要だった。また農業経済から商品経済への変化に対応できる人材も必要としていた。その時より秀吉は、この近江の地で人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用しだす。大谷吉継も近江の人材として登用され、三成とともに検地などに携わった。、計数感覚、内政手腕を得意とする人材をこの近江の地で多く発掘した。 |
『名将言行録』には「吉隆(吉継)は大友家の臣なり、大友家滅びし時、浪遊し、姫路に来たり、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ。」とある。しかし、秀吉の播磨への出陣は天正5年であり、吉継は19歳になっており、姫路での出会いは成り立たない。花ケ前盛明編『大谷刑部のすべて』先述の出自が小谷村大谷十郎行吉を祖とするなら、近江で秀吉によって召し抱えられたとするのが、自然である。また、母は秀吉の正室高台院(北政所、ねね)の侍女で、東殿といわれる。天正初め頃に秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。天正6年(1578年)三木城攻めに馬廻として従軍、秀吉陣中での宴にも「大谷平馬」として名を連ねている。禄は250石であったというが、定かでない。 | 大谷吉継の旗印 |
石田三成 | 浅井長政 | 蒲生氏郷 | 増田長盛・長束 正家 |
永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。て石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。幼少近江の観音寺(滋賀県長浜市)で寺小姓の時、秀吉と出会い、有名な「三献の茶」の逸話が伝えられている。また、石田三成と大谷吉継とは一歳違いであり、北近江のどこかで二人は出会い、石田三成に吉継が寄り、秀吉に召し抱えられたことも、推測できる。 | |||
石田三成が修行した観音寺 (滋賀県米原市朝日) |
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豊臣政権と大谷吉継
石田三成の旗印 |
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蒲生氏郷 近江国日野出身豊臣政権のもとで、経済政策をよくした大名。近江日野の出身で、伊勢に転封して伊勢商人を育て、後に会津に移って会津の殖産興業を押し進めた。 近江国浅井郡益田郷出身 (なつか まさいえ) 近江国栗太郡長束村、五奉行のひとり。 |
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東近江地方(賎ケ岳より) |