平成22年10月12日 氣比神宮と黄蕨(吉備)国 「保食神(騎馬民族)の軌跡」 丸谷憲二 1 はじめに 吉備国の語源「黄蕨」を調査していて、吉備国と越前国が強く結びついている事実を発見した。氣比神宮(福井県敦賀市曙町)と化氣神社(岡山県加賀郡吉備中央町案田)である。越前国一宮・北陸道総鎮守 氣比神宮祭神保食神の吉備国内での軌跡を『岡山県神社誌』により調査した。神道史の立場から「保食神(騎馬民族)の軌跡」として報告したい。 2 氣比神宮の祭神と黄蕨(吉備)国 越前国一宮・北陸道総鎮守、氣比神宮の祭神は、伊奢沙別命(笥飯大神・御食津大神)を主祭神として6柱を祀る。仲哀天皇(帯中津彦命)、神功皇后(息長帯姫命)、日本武尊、応神天皇(誉田別命)、玉妃(たまひめ)命、武内宿禰命である。 伊奢沙別命の名義は不明である。氣比神宮の「氣比」は「きび」と読める。祭神より吉備国との関係を考察したい。末社に擬領神社がある。擬領神社の祭神は稚武彦命である。稚武彦命で吉備国と直結する。擬領の意味は不明である。和銅6年(713)に角鹿は敦賀と改められた。 擬領神社 氣比神宮 角鹿神社 2.1 擬領神社と稚武彦命 稚武彦命の別名は、若日子建吉備津日子命である。吉備津彦命とも呼ばれる。しかし、吉備津彦命は、一般に兄の大吉備津彦命を指している。 『先代旧事本記』国造本紀に稚武彦命は、「吉備臣の祖、角鹿国造の祖、建功狭日命の祖父」とある。孝霊天皇の皇子で、母は絙某弟。子に吉備武彦命、景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫、景行皇妃の伊那毘若郎女がいる。 兄の吉備津彦命(大吉備津彦命)が四道将軍に任命され西道に赴き、稚武彦命は行動を共にしている。『古事記』孝霊天皇段に、「大吉備津彦命と稚武吉備津彦命とは、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき」とある。 3 化氣神社と「鹿角・いさざ王」 吉備国に化氣神社がある。「氣比神宮」の「氣比(けひ)⇒化気(けぎ)」、「比⇒化」、「角鹿(つぬが)⇒鹿角」と変化している。化氣神社は備前国津高郡上田村案田(岡山県加賀郡吉備中央町案田)、化気山に鎮座している。創建は養老年中(717~723)である。祭神は大和漆上郡春日大明神4柱「武甕槌神、齋主神、天兒屋根神、比賣神」と伊奢沙和氣神の5柱である。 第十代崇神天皇の十年孝霊天皇の皇子大吉備津彦命四道将軍の一員として吉備国に派遣。異母弟若日子武命と共に針間(播磨)国から本宮山の峯に来られた。化気山山上に御食津神(伊奢沙和氣神)を祀られた。氣比神宮の主祭神である。化氣神社に鹿の角の彫刻が多くある。本宮山への登山道に「旭川源泉」の湧水がある。
化気神社 鹿の角・彫刻 化気神社神宝に『いさざ王』と言う「丈1尺8寸4分の鹿角」がある。伊奢沙別命(いざさわけ)は応神天皇の本名である。表記の変化は「応神天皇を隠す」ためと考える。隠したい歴史とは、「応神天皇の吉備国内の軌跡」である。 平成22年4月30日に若狭哲六先生と片山伸栄氏に化氣神社を御案内いただいた。そして、神宝『いさざ王』の写真入手を草地知之宮司に依頼した。 毎年10月開催の加茂大祭に化気神社から神輿が出る。神輿の屋根は当日の朝、新しい「榊の葉」で葺かれる。『岡山県御津郡誌』には「柳の葉をもて毎年葉替をなすを例とす」とある。『古事記』では「豊玉毘売命が、海神国から地上の国にやってきて、海岸のなぎさにつくられた鵜の羽を葺草にした産室の屋根を葺き終わらないうちに出産した。八尋の鰐になって出産しているところを彦火火出見命に見られたために、豊玉毘売命は海神国へ帰った。」とある。「鵜の羽を葺草にした産室の屋根」の伝承、鵜の羽が柳の葉に変更されている。 4. 豊原北島神社の境内摂社 氣比神社 『岡山県神社誌』に収録されている氣比神社は、豊原北島神社(瀬戸内市邑久町北島)の境内摂社のみである。境内摂社に氣比神社がある。平成22年6月16日、野崎 豊先生に豊原北島神社を御案内いただいた。豊原北島神社は舒明天皇6年(634)豊前国宇佐より勧請、神社東の鎮座石の上に「藁をとき敷いて奉祀した」ことから、「ときわら」が荘名の「とよはら」となったと説明している。北島は往古、島であった。豊原荘北島に座す神社で延喜式外の古社、従五位上豊原北嶋明神である。祭神は応神天皇・神功皇后・比め大神・豊原北島神である。 境内摂社・氣比神社の説明に「祭神 足仲彦神(仲哀天王)・保食神。この地が北方とも交流があったことや、朝廷との結びつきがしのばれます。」とある。氣比神社の祭神名を保食神と品陀和気命(応神天皇)の父、足仲彦神(仲哀天皇)としている。
豊原北島神社 氣比神社
5 伊奢沙別命と誉田別 名前の交換 笥飯大神の別名が、伊奢沙別命(御食津大神)である。伊奢沙別命の名義は不明である。伊奢沙別命は記紀には登場しない。 気比大神の伊奢沙別命の名は、天之日矛の神宝「胆狭浅の太刀」からとの説がある。 5 『備前吉備津彦神社縁起』の「吉備津彦大明神と吉備津武彦命」 『備前吉備津彦神社縁起』延宝丁巳(延宝5年・1677)朱印に「山陽道 備之前州 一品宮者、人皇第七代 孝霊天皇 第三之皇子 五十狭芹彦命(いさせりびこ)也、叉名 吉備津彦命、母謂細媛命。一品 吉備津彦大明神 併相殿神 吉備津武彦命、孝霊天皇三世之孫也」とある。『備前吉備津彦神社旧記断簡』に、「孝霊天皇三男三女 第一孝元天皇、第二越前一宮、第三備中一宮、長姫宮、第一備前一宮、第二尾張宮、第三讃岐一宮、備後一宮一門タリ」とある。第二越前一宮により北陸道総鎮守 氣比(けひ)神宮との関係が確認された。 6 御食津大神と保食神 『若狭おばま観光協会パンフレット』に「御食国 若狭おばま」とある。氣比神宮の祭神は、伊奢沙別命(笥飯大神・御食津大神)である。笥飯大神の別称が御食津大神である。『古事記』に「御食津神は気比神なり」とある。『気比宮社記』には「保食神」とある。御食津大神は保食神と共に食物神とされている。福井県では「御食国の神」と解されている。御食国は、古代から平安時代までの贄の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだ国を指す言葉である。古代敦賀から朝廷に贄を貢納していた。 6.1 御食津大神と大御食津彦命 大御食津彦命は、河内国二宮恩智神社(大阪府八尾市恩智中町)の祭神である。恩智神社は河内国高安郡に鎮座している。祭神は、大御食津彦命(天児屋根命の五世の孫)と大御食津姫命(伊勢神宮外宮祭祀の豊受姫大神の別名)である。『総国風土記』に「恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉ニ圭田一行ニ神事一云々」とある。創建は雄略年間(470年頃)であり元春日と呼ばれている。 『文徳天皇実録』嘉祥3年10月辛亥(7日)条(850)に、「河内国恩智大御食津彦命神。恩智大御食津姫命神等並正三位。丹比神従五位上。伊勢国阿耶賀神従五位上。尾張国熱田神正三位。越前国気比神正二位。」とある。 恩智神社では、、大御食津彦命を天児屋根命の五世の孫としている。天児屋根命は、河内国一宮枚岡神社(大阪府東大阪市出雲井町7番16号)の祭神である。主祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神であり、比売御神(ひめみかみ)はその后神である。神武天皇紀元前三年、天種子命が勅命により、神津嶽に天児屋根大神・比賣大神の二神を祀ったのが創祀である。つまり、御食津大神は中臣氏の先祖である。 「御食津大神」の名は『古事記』に大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとある。
河内国二宮 恩智神社
6.2 保食神 6.2.1 大気都比売神と速須佐之男命『古事記』 『古事記』に、岩戸隠れの後に高天原を追放された速須佐之男命が、食物神である大気都比売神に食物を求めた話がある。大気都比売神は、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して速須佐之男命に差しあげた。しかし、速須佐之男命がその様子を覗き見、食物を汚して差し出したと思い、大気都比売神を殺してしまった。 大気都比売神の屍体から様々な食物の種などが生まれた。頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれた。神産巣日御祖命はこれらを取って五穀の種とした。今日の植物の起源である。 6.2.2 保食神と月夜見尊『日本書紀』 『日本書紀』・神産みの第十一の一書に月夜見尊と保食神の話がある。天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになった。 天照大神が保食神の所に天熊人を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。 6.2.3 ハイヌウェレ型神話 この神話は食物起源神話である。この食物起源神話は、東南アジアのハイヌウェレ神話と同一である。排泄物から食物を生み出す、神を殺すことで食物の種が生まれた。 ハイヌウェレ型神話のハイヌウェレとはインドネシアの死体化生神話の主人公の名である。この神話を研究したイェンゼンは、死体から作物が発生する神話を「ハイヌウェレ型神話」と命名した。日本神話の大気都比売神や保食神・神産巣日御祖もハイヌウェレ型説話である。この神話は渡来人の故郷の神話である。渡来人の故郷とは東南アジアやオセアニアではない。日本神話では、発生したのが宝物や芋類ではなく五穀である。東南アジアから中国南方部を経由して日本に伝わった話である。
7 黄蕨(吉備)国の保食神 「騎馬民族には独特な食神思想がある。」「天孫降臨という行動形で最も端的に現れてくる。」と武智鉄二氏は主張する。天孫降臨とは、高い山の頂きに天帝の使者が降り立つという出現方法を言う。山頂からの国見は、食神にとって一番重要な事項である。生き抜くための食材の発見である。騎馬民族は食神と共に日本へ侵寇している。 7.1 『岡山県神社誌』により保食神、保食命を主祭神・末社とする神社名調査結果 岡山市11社と瀬戸内市8社に集中している。保食神(騎馬民族)の吉備国での記録である。
8 突厥国と敦賀 「テュルク族(突厥国)の王は可汗、王妃は可賀敦と呼ばれる。可汗は加賀国(石川県)の語源をなすものではないだろうか。可賀敦の下二字をひっくり返すと、そのまま敦賀になってしまう。」とし、「テュルクの転化と考える他はない。そうでなくては、縄文後期の製鉄遺跡の説明がつかない。」と武智鉄二氏は主張している。 日本へ製鉄技術が渡来し、一番古い登り窯は石川県加賀市豊町の瓢箪池二号炉(BC500~300)とされ、同一年代の鉄遺跡が福井県金津町細呂木駅製鉄跡Ⅰ(BC550~370)である。 年代測定法は炭素定着法である。「福井県・石川県に高度の製鉄文化を担ってテュルク人(突厥国からの渡来人)が定住したことは、ほぼ間違いないことに思える。」としている。 『旧唐書鉄靭伝』に、「鉄靭は、匈奴から別れた種族である。突厥の勢力が強力となってから、鉄靭の諸部族は分散し、その部衆は、次第に弱小となった。唐の武徳年間(618~626)の始めのころ、15の諸部族が漠北に散在していた。」とあり、その中に骨利幹がある。武智鉄二氏は、「骨利幹を倶利伽羅峠の語源と思う」としている。倶利伽羅峠は、石川県河北郡津幡町と富山県小矢部市との県境にある峠である。宝達丘陵の南端にあり、標高260メートル。両県を結ぶ交通の要地として古くから開け、604年(推古天皇12)の開道と伝えられている。 9 渡来人の日本流入経路 「異民族の日本流入経路は5つある」と武智鉄二氏は主張している。 特に重要なのが、①と②の経路である。 ① 天山北路から南シベリアにかけて居住していた突厥系(古代トルコ系民俗)のうち、鉄靭に属する骨利幹部族(あるいは複数の部族。鉄靭は35部族よりなる。)が、日本海を横断して北陸方面へ、紀元前3~400年頃、冶金術(鉄器文化)を伝来する。 ② 漢民族の中でも最も純粋に原中国民族系である華夏系(中原河北系)民族が、紀元前200年頃、水田稲作農耕技術を持って、渤海湾から日本本州西端部(現在の山口県)へ渡来。 ③ 中国の朝鮮植民地総督である帯方郡吏(太守)が、北九州の伊都付近に都督府を置き、卑弥呼の女王国と結んで倭の植民地化を計る。起源0年頃のことである。 ④ 馬韓・弁韓・辰韓のいわゆる三韓のうち、弁辰系の部族が末盧(松浦)付近を占領して、弁辰の領土とする。また、韓の北隣の民族「濊」が、同じ頃日本へ進駐する。これが紀元50年ごろで、いわゆる天孫民族の日本征服がこれにあたる。 ⑤ 宗谷海峡を渡って北シベリアの民族が侵入して日本の東北文化の基礎を築く。砂鉄生産の特殊技術である「たたら製法を伝来したのは、この種族(タタール・韃靻系)と考える。 10 若狭(ワカサ)の語源とリマン海流 福井県若狭地方は古代日本の先進地域である。若狭(ワカサ)の語源は朝鮮語のワカソ(往き来)である。リマン海流を利用し古代から大陸の文化が朝鮮半島を経由し日本に伝来した。間宮海峡付近からユーラシア大陸に沿って日本海を南下する海流(寒流)がある。日本海を北上する暖流の対馬海流が北上するにつれ冷やされ、アムール川の淡水と混ざり、南下する。「リマン」とはロシア語で大河(アムール川)の河口(三角江)を意味する。サハリン (樺太)の南西から沿海州に沿うようにして朝鮮半島の北東(北緯40度)までの海流である。 11 まとめ ① 氣比神宮の「氣比」は「きび」と読める。読み替えて、末社の擬領神社と祭神の稚武彦命を発見した。稚武彦命で吉備国と直結した。 ② 化氣神社(岡山県加賀郡吉備中央町)の名前に注目した。氣比神宮の祭神、保食神に注目し吉備国内での軌跡を『岡山県神社誌』により調査した。神道史の立場から「保食神(騎馬民族)の軌跡」として報告した。 ③ 私は吉備国の保食神(騎馬民族)の軌跡とは応神天皇の軌跡であると考えている。保食神が月夜見尊に殺される前の記録である。 ④ 何故、伊奢沙別命と誉田別との名前を交換したのかである。名前を交換したのは記録を隠す。歴史を隠すためである。 12 参考文献 ①『北陸道総鎮守 気比神宮』http://kehijingu.jp/ ②『福井県』http://www.pref.fukui.jp/doc/kankyou/water/unosekyuusuisyo.html ③『吉備津彦神社史料』文書篇 昭和11年 吉備津彦神社社務所 ④『福井県史 通史編1 原始古代』平成5年 福井県 ⑤「氣比神宮」『別冊歴史読本39 伊勢神宮と全国神宮総覧』2003 新人物往来社 ⑥『敦賀の歴史』平成元年 敦賀市史編纂委員会 敦賀市役所 ⑦『氣比宮社記』昭和15年 官幣大社氣比神宮 ⑧『化氣神社』http://websakigake.sakura.ne.jp/06-134.html ⑨『新編日本古典文学全集1 古事記』1997 小学館 ⑩『福井県の地名 日本歴史地名体系18』 1981 平凡社 ⑪『岡山県神社誌』岡山県神社庁 ⑫『古代出雲帝国の謎』武智鉄二 平成2年 祥伝社 ⑬『先代旧事本紀大成経(一)続神道体系 論説編』 平成11年 小笠原春夫校注 神道体系編纂会 ⑭『恩智神社』http://www.onji.or.jp/index.html ⑮『河内国一之宮枚岡神社』http://hiraoka-jinja.org/history/index.html ⑯フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ⑰『気比神社七座』http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/300101.html ⑱『清心第8号』平成3年12月 和気神社社報 氣比神宮 〒914-0075 越前二宮 剣神社 JR北陸本線の武生駅下車、駅前より越前海岸方面(織田経由)行バス乗車。(約35分) 若狭彦神社 〒917-0241 姫神社:0.6Km 福井県立図書館 |