敗者の本陣・玄蕃尾城遺構 | |||
玄蕃尾城は峠から中内尾山の頂上にある。遺構の入り口の案内板には、縄張り図に各虎口、馬泊まり、司令塔、櫓、兵站領域が示されている。本丸跡は最も高い位置に在り、その中に物見櫓跡があり、天正11年(1583年)、中世城郭から近世城郭への過渡期、限定された時期の遺構として貴重であり、良好に遺存されている。。平成11年7月13日「国指定史跡」である。所在は敦賀市刀根50番字外ケ谷から滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬にまたがる。。 | |||
櫓(やぐら)台ら北国街道・余呉方面 櫓(やぐら)台から腰郭 空堀跡 |
玄蕃尾城案内板より作成(敦賀市・余呉町教育委員) |
土塁跡 土塁跡 兵站(へいたん)郭空掘跡 |
|
主郭(本丸)跡 |
戦いの経過 | |||||
|
膠着から中入り 3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬周辺に布陣を完了させた。対陣以来1か月、散発する小競り合いはあるも、戦線は膠着状態。そして4月16日、、戦局は動いた。岐阜の織田(神戸)信孝が勝家の求めに応じて挙兵。羽柴秀吉は岐阜に向かって移動する。その間を衝いて、柴田軍が先に大規模に動いた。佐久間玄蕃政盛が大岩山の中川清秀等攻撃を進言、柴田軍は攻撃に掛った。中入りである。20日夜半、佐久間政盛が行市山を出て南下、払曉に大岩山の羽柴側中川清秀を攻める。中川秀清奮戦するも破れ戦死する。さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。 丹羽長秀賎ケ岳を守る 時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が琵琶湖北岸海津へ上陸を敢行した。長秀率いる2000の軍勢は、撤退を開始していた賎ケ岳の守将桑山重晴の軍勢と合流し、間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。 柴田勝家狐塚に前進 中入りの成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。柴田勝家も玄蕃尾城を出て南下、狐塚に布陣する。 美濃大返し 柴田軍のこの動きに羽柴秀吉は待っていたかのように迅速に反転した。美濃大垣から52kmの大返しが始まる。5時間ほどで賎ケ岳の戦場に返した。(同日の午後九時に賎ケ岳到着。その速さは当時の常識とはかけ離れていた。街道筋には炊き出しなど準備され、兵士は具足を外して急いだという。 佐久間軍虚を衝かれる 春霞にその稜線を希薄にしている伊吹山が遠望できる。その夜、信じられない時間に、山麓と思われるところから麓の木之元まで羽柴秀吉軍の松明、篝火群が現れたのである。20日夜である。早くとも21日が当時の常識だった。守備についていた羽柴長秀の羽柴軍も加わって、そのまま秀吉軍は佐久間軍に襲いかかった。佐久間軍は戦線を固めるべく退きながら、よく戦い戦線を立て直そうとした。後狐塚に押し出している勝家本隊、別所山から茂山に進出していた前田利家等と戦線を結ぼうとした。しかし、柴田勝政軍が羽柴軍に攻められ、苦戦に陥った。それを支援するため、佐久間軍は返した。 前田利家撤退 しかし、賎ケ岳の戦いはここまでであった。前田利家軍の戦線離脱である。集福寺口に移動した。それによって戦いの帰趨が決定付けられた。佐久間軍は乱れた。本陣の柴田勝家からも佐久間、柴田勝政軍の総崩れに見えた。狐塚から勝家本隊も後退した。柴田側の総崩れとなる。前田利家は羽柴秀吉の朋輩でもあったが、突然の離脱については諸説がある。ともあれ、前田利家は集福寺口から塩津街道(現国道8号線)を経て敦賀へ、木の芽峠を越えて越前府中(現越前市)に帰還した。 柴田軍北国街道を敗退 柴田軍は雪崩を打って崩れ、柴田勝家は北国街道椿坂峠を敗走する。この北国街道、勝家が近江への軍用道路として整備した道でもある。そして越前北の庄(現福井市)まで羽柴秀吉の追撃を受け、城とともに滅んだのである。 | |||
柴田勝家墓(西光寺境内) 福井県福井市左内町8−21 夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 勝家辞世の句 |