博 『敦賀港絵図』(1932年)

[1]西へ行こうか 東へ行こうか
  港敦賀は 東洋の波止場
  名残り惜しめば テープもぬれて
  明日は異国の 星の下
[5]誰と乗りましょ 国際列車
  遠い波路を はるばる着いて
  青い眸の あこがれ乗せて
  花の東京へ 一走り
『大敦賀行進曲』 作詞高橋掬太郎 作曲古関祐而 歌伊藤久男(昭和11年)(2)~(4)省略
明治初期の敦賀港   
  江戸時代から明治初期、海運業は和船が中心であった。近代化を進める明治政府は海運業の近代化を急がせた。西洋形帆船や小型汽船を導入した海運会社が設立された。国策のもと、多くの日本海の北前船主は所有する船舶を大型化していった。福井県も例外でなく、有力な北前船主であった南条郡河野村(現南越前町河野)の右近権左衛門家もその一つであった。  
  近代化の始まり   

明治初期大型和船(イメージ)
敦賀汽船会社
木の芽峠を境とする福井県の嶺北・嶺南、その間の流通が従来に増して重要視され、明治8年、海運では敦賀・三国間を航路とする敦賀汽船会社が設立された。敦賀では大和田荘兵衛らによる設立であった。東京より購入した汽船敦賀丸をもって、7月より三国・敦賀間の営業を開始した。それは県内の航路にかぎり損失が出れば、県が補償するという、半官半民であった。
北海道定期航路
明治9年三菱汽船会社が北海道定期航路に就き、明治16年以降本格化した。敦賀港においては、荷物取扱方は打宅弁次郎、室五郎右衛門、大和田荘兵衛、那須吉兵衛などであった。明治17年の鉄道開設によって、この航路は若狭の小浜、山陰の境にも延長し、敦賀は物資を汽車に積み替えるための日本海側一大集積地となった。

合いの子船
博 帆船と汽船の利点を併せ持つ
初期海運
  鉄道と灯台   
  明治17年北陸線(柳ヶ瀬線)の敦賀・長浜間の鉄道開通、明治21年敦賀街道(現国道8号)が開通した。江戸中期西回り海運によって敦賀港の不振が続いたが、ここに来て、海運と車両用道路が鉄道と繋がり、日本海側で一大集積地への一歩ととなった。
敦賀の鉄道
 

気比神宮前にあった敦賀駅

博 敦賀港金ヶ崎駅

立石灯台
立石灯台
1881年(明治14年)7月に点灯した。全国の主要灯台のうち36番目、日本海沿岸では各島灯台(山口県)に次ぐ、二番目のものだった。日本人のみで建設された最初の西洋式灯台として知られる。日本海側で、明治政府が敦賀港を重要視していることが伺える。
  北陸線の伸長   
明治29年(1896)、敦賀駅~福井駅間が開業すると「北陸線」と命名された。次いで明治32年、富山まで伸長すると、鉄道によって貨物・旅客が敦賀を素通りすることが多くなり、港および敦賀町は不振に陥った。また、金ケ崎への港線も北陸線の支線となり、敦賀駅も気比神宮前から現在地に移転した。
博 現在地最初の敦賀駅

明治期の杉津駅からの眺望
萬象 下村房次郎
明治19年(1986)有力商人32名が1,100円の資金を提供して建設、迎賓館兼会議所として使われた。木造瓦葺き二階建て75坪5合。明治20年連合町村役場の公営となる。明治41年(1908)隣接して貴賓館が新築され、翌年大正天皇(当時皇太子)が行啓された。以後、皇族方の来敦には、宿泊所、休憩所として使われた。現在地には市民文化センターが建設されている。
博 満象閣
和歌山県生まれ。実業家。明治13年(1880)和歌山日々新聞主幹となる。明治19(1886)逓信省通信局に任じらる。明治26年(1893)逓信省退官後、全国の鉄道と日本沿岸港湾の視察・調査を志す。明治34年(1901)に日露直接貿易の必要性を唱え、露国公使と日露貿易に関する覚書を交わしロシアに赴いた。日本海航運の拡大など交通通信事業の発展と日露貿易の振興に務めた
敦賀文化センター隣蓬莱公園内
  開 港   
現在の風景
市 明治40年ごろの敦賀港
対岸貿易の進展(明治末~大正)
  明治38年(1095)、日露戦争後の講和条約によって、ロシアは遼東半島と南満州鉄道を放棄し、翌39年開通したシベリア鉄道を開放し、ウラジオストク港を「東亜の門戸」として日露貿易の回復に注力した。よって、敦賀は大陸経営の拠点港として繁栄していった。   
敦賀港の第一期修築工事 第1種重要港湾に指定
敦賀港が開港場の指定をうけて以来、地元では港湾改修の要望が高まっていた。明治41年の帝国議会で敦賀港の修築が議決され、総工費80万円、42年度から四か年継続の国営事業として、同年7月に着工された。大正2年(1913)3月には工事の大半が完成したが、 引き続いて埋立護岸および浚渫などの追加工事が行われ、翌年3月には全工事が完了し、金ヶ崎岸壁が整備された。内務省『敦賀港改良工事誌』より
第一期修築工事計画図(金ヶ崎岸壁)  
明治40年(1907)には、敦賀・ウラジオストク(ロシア)間に日本海命令航路が開設され、横浜・神戸・関門(下関・門司)とともに国費経営の第一種重要港湾に指定される。敦賀は日露戦争後の大陸経営やウラジオストク、シベリア鉄道との連絡をも視野に入った国際貿易港としてきたされた。他方、ロシアもウラジオストク港を「東亜への門戸」として対日貿易の回復に注力していた。
博 敦賀港税関桟橋と鳳山丸
「東洋の波止場」への道 欧亜連絡国際線(列車)
  日露戦争の勝利で大陸の権益を得た日本は大陸への定期航路(敦賀~ウラジオストック)の拡充、やがて明治45年東京~敦賀~ウラジオストック~ペテルブルグ大陸縦断連絡列車ラインが確立した日本で初めてのボートトレインであった。敦賀の町は国際色を豊かになり、熊谷ホテルなど和洋折衷のホテルが建ち、ロシア語の看板を掲げる店も多くなった。  

欧亜国際連絡列車時刻表






ウラジオストク渡航パスポポート


赤レンガ倉庫(現存)

ポートトレインラップ小屋(現存)
  敦賀港より旅立っていった人   

市 来敦した探検家アムンゼン
(諸和12年)

市 モスコーに赴任する重光葵大使

市 国際連盟出席のためジュネーブに向う
松岡洋祐
市  外人観光客
  対岸貿易と第一次世界大戦  
貿易相手国

対朝鮮貿易

敦賀市史通史編(下)より
明治38年日露戦争後、ロシアはシベリア鉄道を開放し、ウラジオストクを「東亜の門戸」として日露貿易の回復に注力した。敦賀~ウラジオストク間は週三回の定期運航となり、いよいよ戦前敦賀港の繁栄期を迎えていった。敦賀町中ではロシア語の看板を掲げる店も散見された。敦賀商業学校ではロシア語学科が設けられた。大正3年第一次世界大戦が起きると、軍需景気をもたらした。
市 朝鮮牛の輸入
『ふるさと敦賀の回顧』より敦賀市提供


縄間の旧獣類検疫所
(平成18年現在)
対露貿易
社会主義革命と朝鮮貿易
第一次世界大戦後、ロシアで大正6年3月(1917)社会主義革命が起こり、ソヴィエト連邦が成立。翌年、日本はシベリア出兵。シベリア出兵の輸送基地となった。敦賀港は数万の兵士を輸送し続け、一時は凖軍港的色彩を帯びていた。日ソ両国の対立の深まり、ソ連政情不安定、大正9年の世界恐慌によって対ソ貿易は一気に停滞した。しかし、朝鮮北部への直通航路、日本海横断航路が開始されると、対岸貿易の相手国は急速に朝鮮国への比重が多くなった。とりわけ、大和田荘七による「朝鮮牛」の輸入が行われた。

博 大正3年ごろの敦賀港(第二期港修築工事前)

第二期敦賀港修築工事
  第一次世界大戦および戦後の対岸貿易の増加によって、敦賀港はその狭小と施設の貧弱さを露呈することになった。。敦賀港を7000トン級の船舶が係留できるような港に改修するため、総工費350万円、5か年継続とした事業計画を立てた。県が大正14、15両年度に工費110万円を一時立て替える、地元負担金50万円を県(実質は敦賀町)が拠出することで着手されることとなった。しかし、修築計画案について、大和田荘七が支持する政友会案と反大和田の町民の憲政会案が対立した。  
 大和田案(政友会)  反大和田案(憲政会)
 大和田は、政友会内閣が採用した当初の修築計画を支持し、現在の港が狭隘ならば将来常宮湾に大敦賀港を築けば解決できると、第一期工事運動以来の持論を主張した 大正14年(1925)前年の防波堤完成による潮流の変化によって「うねり」が発生した。また、内港水面積も狭小で入港船舶から苦情が出ていた。これらのことから、町当局は早急に主務省へ「笙ノ川ノ敦賀港抱擁ニ関スル建議」が出された。
第3期敦賀湾修築計画(案) 地元拠出金問題と選挙結果  笙の川治水工事
大和田荘七が第二期の次に構想していた「第3期敦賀湾修築計画」は常宮を含めた壮大なものだった。しかし、選挙戦に敗れ、幻の構想となった。  敦賀町は財源捻出に10万円の起債を承認するのが限度で、残額40万円については、大和田荘七に支援を求めた。大和田はこれを受けて、次の案を県に提案した。敦賀に倉庫会社(敦賀築港倉庫株式会社)を創設し、この会社から40万円を敦賀町へ寄付。福井県は修築工事完成時に内務省から不用埋立地4000坪の無償払下げを受けるという条件だった。しかし、 一富豪が組織する営利会社(敦賀港湾倉庫株式会社)に築港埋立地を提供すると云うことは、後日に弊害を胎するものと批判が出た。
大正15年5月1日、反大和田派が主流を占める憲政会系は、17人(定員30人)が当選し大躍進をとげ、憲政会採用を決議した。
大和田荘七氏は同年9月1日に敦賀商業会議所会頭を、翌日には福井県対岸実業協会敦賀支部長を辞任し、一切の公職を辞した。
従来、旧笙の川からの水害が多かった敦賀町だったが、新笙の川への通水(昭和5年)によって水害は解消さら、また敦賀への土砂の流入は劇的に少なくなった。次に構想していた「第3期敦賀湾修築計画」を含めた大和田案より憲政会案を敦賀町民は選んだ。

 

市 昭和8年ごろの敦賀港(第二期港修築工事後)


敦賀町議会 
『敦賀市議会史』(3巻)
蓬莱岸壁の拡張 蓬莱岸壁

博 蓬莱岸壁引き込み線と敦賀倉庫

博 蓬莱岸壁
博 町営上屋
博 蓬莱岸壁
金 融
  明治維新後、金融制度は旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」を導入した。明治4年(1871年)国立銀行(ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。この国立銀行は金禄公債証書を抵当にして銀行紙幣発行することjによって、全国で明治12年(1892)には153行を数えるに至った。しかし、この官制銀行の限界から、明治23年公布の銀行条例によって国立銀行から普通銀行設立が認められた。  
  敦賀町の銀行動向  
  敦賀では大和田荘七が資金10万円で大和田銀行を創立した。大和田荘七による実質的な個人経営であった。第二五国立銀行は「ちょんまげ銀行」と揶揄され、高利・短期であったのに対して、大和田銀行は「でっち銀行」と言われ、低利で業績を伸ばしていった。この大和田銀行の伸長に対して、大和田荘七の金融独占を恐れた国立銀行の取引先たちは新しい銀行の設立を望んだ。敦賀銀行である。  
大和田銀行 敦賀銀行

旧大和田銀行(現在 市立博物館}
現在、国指定文化財(重要文化財)
大和田荘七および親族の個人経営とは言え、大和田銀行は荷為替手数料・貸付金の金利を大阪並みに低くし、業務の近代化を進め顧客を獲得していった。また、日清戦争後の日本は急速に工業化を発展させ、情報通信網(電信)も整備され、金融の需要は拡大していった。それは金融界飛躍のきっかけとなった。大和田銀行もその趨勢に乗った。昭和3年竣工の本店ビルは鉄骨総大理石造り、地上3階地下1階、総工費25万円が投じられた。銀行業務以外のスペースは地下レストランなど市民に開放された。
敦賀銀行
博 蓬莱町(三井銀行跡)
資本金 10万円 (株主109名)
主な株主
 
山下五右衛門・久保正太郎高橋仁兵衛・大和田壮太郎・喜多村兼吉・西岡治左衛門・他

設立時役員
頭取     山本伝兵衛
専務取締役 喜多村兼吉・
取締役    山下五右衛門

 営業状況
地元事業家 大和田荘七
自業歴
明治38年「敦賀外国貿易協会」「敦賀貿易汽 船会社」を設立し、敦賀・牛荘(中国遼寧省)間の航路を開設して大豆・豆粕の直輸入を始める。
明治38年、北海道留萌で炭坑経営を開始
大和田銀行、朝鮮京釜(けいふ)鉄道の上位株主となる。
大正6年(11917)敦賀港拡張を陳情するなど、運動を始める。8年10月には日露協会の後藤新平らを顧問に、大和田を敦賀支部長にする「福井県対岸実業協会」を設立
大正14年(1925)敦賀町会議員改選は、大和田荘七への個人攻撃や排斥運動も連動する激しい選挙戦となる。反大和田派が主流を占める憲政会系が勝利
大和田荘七いっさいの公職から引退

博 大和田荘七氏像
敦賀旭町(現相生町)の薬種商「山本九郎左衛門」の次男として、安政4年(1857)2月11日生まれる。。かねて、彼の才能を見込んでいた北前船主初代大和田荘七が、明治11年(1878)大和田家の養子にする。1887年(明治20年)30歳のときに、二代目「大和田荘七」を襲名。明治25年大和田銀行を設立。本格的な事業拡大を行っていく。戦前敦賀港の発展に甚大な貢献をはたした。昭和22年(1947)1月30日大分県別府市にて永眠、享年90歳。.

大和田荘七
 敦賀への社会還元
明治24年(1891)1月に小学校委員に就任、初等教育振興に尽くす
町立敦賀商業学校の商議員としては「ロシア語」教育の導入を提唱
幼児教育の重要性にも着目し、大正5年(1916)2月早翠幼稚園の設立に必要な敷地と建設資金を提供
鉄筋コンクリート3階建ての近代的庁舎を新築(前市役所庁舎〉し、致賀町へ寄贈
敦賀連隊、旅団司令部、縄間の獣類検疫所などの設置にあたり、所有地を無償で提供
冶安・防災の強化を支援、災書の備えて発生精米工場を建設
金崎宮・石玉垣に見る敦賀町 
玉垣奉献者地域別分布
敦賀港 179
福井県
県外 50 
国外 35 
不詳 82 
日本海地誌研究会紀要四号より
金崎宮は明治23年9月、尊良親王を御祭神として創建、宮号を金崎宮として官幣中社に加列された建武中興15社のひとつ。明治45年敦賀町内外の有志によって615基の石玉垣が奉献された。参道から本殿、鴎ヶ埼まで敦賀港を望むこの石玉垣は当時の敦賀港の活況を偲ばせる。おりから対岸貿易が進展するなか広汎性(国際色)が大きな特色でもあった。敦賀港以外の国内外の奉献者が半数近い。また、町内においては、金ヶ崎岸壁に近い川東地区の奉献者が多い。
敦賀町地域別分布 
川東地区 62 
川中地区 83 
その他 34 
日本海地誌研究会紀要四号より

金崎宮参道階段


金崎宮本殿

鴎ヶ埼への道

鴎ヶ埼から敦賀港
画像提供 博印 敦賀市立博物館提供 市印 敦賀市提供

戦災と復興

TOPに戻る