敦賀の人びとのあいだには、「こんな小さな港町だから、やられぬだろう」「やられるにしても、北陸地方には金沢や高岡や福井がある。そのつぎだろう」というような気持ちがあった。
昭和20年7月12日
 朝から絹糸のような雨が絶え間なくしとしとと降っていた。西北西の風が時折吹いていた。(中略)午後9時19分、福井県警戒警報が発令されたが、いつも敵機は若狭湾または敦賀湾に機雷を投下して、いずれかに去っていくのが常であった。当日もまた「また来たか」といった気持で市民は警備についた。やがて子供や老人が床についてまもない11時12分ごろ、東郷村方面に異様な音響が起こるとともに、パッと明るくなった
。「敦賀市史通史編(下)」より
軍事基地化
  昭和12年(1937)、敦賀は市制誕生の祝賀に喜んでいた。しかし7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして日本と中国の戦争が全面化し、戦時体制の泥沼への道を日本は歩みだした。。日米開戦後は商船の徴用、満州から大豆などの戦力資源の輸入が増大した。しかし戦争末期には商港敦賀港も軍需港となり、町には太平洋側の軍施設が引っ越しして来て軍の統制下におかれた。これら敦賀の状況が日本海側で米軍空爆の最初の標的となった。  
 米軍にとって、日本海側で朝鮮半島、満州国への航路で結ばれた敦賀港の機雷による」封鎖は戦略的に不可欠であった。戦後、機雷撤去による掃海、不発弾処理が急がれたが、船舶の損傷、不発弾爆発による事故が散見された。   太平洋戦争末期、空襲を受けた太平洋側の軍組織の多くが敦賀の町に移動し、学校や他の公共施設に移管した。(左図)

『敦賀市戦災復興史』より作成

博 航空通信隊 (南国民学校)

博 暁部隊 (西国民学校)
戦争とくらし
日中戦争から無謀な太平洋戦争へと日本国は戦時体制を強くしていくなか、国家は国民精神総動員運動を強いていく。すべてが戦争のためとなり物資・精神両面でくらしはひっ迫していった。大政翼賛会発足にいたって国家機能は破綻していった。国家ぐるみの「狂気」のなか、幼いこころの叫びがあった。  
  国家総動員法  
 奢侈品等製造販売制限法 戦時下の統制経済  徴用・勤労奉仕 
戦争遂行のために食糧をはじめあらゆる物資が欠乏していった。価格統制、配給制が行われたが、欠乏の一途をたどった。
昭和13年 国家総動員法公布
▽金属製品制限→
代用品へ
▽民需向け綿製品供給禁止
昭和14年 ▽物価を固定→ヤミ経済へ
▽白米禁止令→
代用食へ
昭和15年 ▽「ぜいたくは敵だ」
昭和16年 ▽生活必需物資統制令
▽物資統制令→切
符制による配給一般化
▽金属回収令→
家庭から金属献納
昭和17年 ▽「欲しがりません勝つまでは」
昭和20年 敗戦・国民生活破綻
代用食  米の配給制が始まり、その配給 量も減り、大豆・メリケン粉・野草を代用食とした。
雑炊  くず米や玄米・野草・海産物であるが、次第に内容物は少なくなっていった。
金属  金属製品は制限され火鉢やはさみ、フォークなど130品目以上が製造禁止となり、代用品として陶器や木製のものが出回った。 
従来任意に存在した勤労奉仕隊を義務付ける、学校・職場ごとに、14歳以上40歳未満の男子と25歳未満の独身女性を対象にした。軍需工場、鉱山、農家などに無償労働に動員された。
  戦時刑事特別法
昭和17年、戦時刑事特別法が成立すると、戦時下における犯罪に対して厳罰主義が強くなった。左記の諸統制違反にも厳しく、、生活必需品に対する買占め・売り惜しみなどに対する罪などを定めた。また、裁判においても被疑者・被告人を速やかに起訴・処罰することを意図しており、人権侵害や冤罪発生などの危険性の高い法律であった。釈放後も「非国民」呼ばわりされ、陰鬱で狂気じみた社会風潮となっていった。
空 襲

焼失家屋の人口  19,000人

罹災死亡者リスト

1944年6月、サイパン島陥落後、アメリカ軍はB29爆撃機をもって日本の諸都市を空爆した。産業破壊、戦意喪失を狙った戦略的空爆である。先ず東京をはじめ太平洋側の主要都市を空爆し、海上輸送阻止を狙って機雷投下を行った。そして、日本海側で最初の空襲は敦賀であった。(昭和20年7月12日)米軍の空爆は的確に行われた。港・臨海地域・中心区を焼き尽くし、第二次(7月30日)ではの艦載機P47によって東洋紡・敦賀駅および港停泊中の艦船を爆撃した。
焼失家屋 4119戸(70%)

焼失・残存建物リスト

B29空襲経路

『敦賀市史(下)』より

焼夷弾
市立博物館展示

博戦災直後の市街地(川東・川中地区)

被災地域
『敦賀市史(下)』より

市立博物館展示
 

博 天満宮付近 

博 東洋紡

市 焼け跡の防空壕上で遊ぶ少年たち

市 気比神宮焼け残った本殿 

市 焼夷弾が命中してそのまま育った立木

市 福井県で占領政策を指揮した
ハイランド中佐

戦災直後の福井新聞記事

古写真は『古写真が語る敦賀』敦賀市立博物館刊より
参考資料『敦賀市参考資料 『敦賀市史』・『福井県史』・その他
統計資料 『敦賀市史』より転載戦災復興史』敦賀市刊
画像提供 博 印 敦賀市立博物館提供 市 印 『ふるさと敦賀の回想』敦賀市刊より

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