敦賀の人びとのあいだには、「こんな小さな港町だから、やられぬだろう」「やられるにしても、北陸地方には金沢や高岡や福井がある。そのつぎだろう」というような気持ちがあった。 昭和20年7月12日 朝から絹糸のような雨が絶え間なくしとしとと降っていた。西北西の風が時折吹いていた。(中略)午後9時19分、福井県警戒警報が発令されたが、いつも敵機は若狭湾または敦賀湾に機雷を投下して、いずれかに去っていくのが常であった。当日もまた「また来たか」といった気持で市民は警備についた。やがて子供や老人が床についてまもない11時12分ごろ、東郷村方面に異様な音響が起こるとともに、パッと明るくなった。「敦賀市史通史編(下)」より |
戦争とくらし | |||
日中戦争から無謀な太平洋戦争へと日本国は戦時体制を強くしていくなか、国家は国民精神総動員運動を強いていく。すべてが戦争のためとなり物資・精神両面でくらしはひっ迫していった。大政翼賛会発足にいたって国家機能は破綻していった。国家ぐるみの「狂気」のなか、幼いこころの叫びがあった。 | |||
国家総動員法 |
奢侈品等製造販売制限法 | 戦時下の統制経済 | 徴用・勤労奉仕 | |||||||||||||||
戦争遂行のために食糧をはじめあらゆる物資が欠乏していった。価格統制、配給制が行われたが、欠乏の一途をたどった。 |
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従来任意に存在した勤労奉仕隊を義務付ける、学校・職場ごとに、14歳以上40歳未満の男子と25歳未満の独身女性を対象にした。軍需工場、鉱山、農家などに無償労働に動員された。 | |||||||||||||||
戦時刑事特別法 | |||||||||||||||||
昭和17年、戦時刑事特別法が成立すると、戦時下における犯罪に対して厳罰主義が強くなった。左記の諸統制違反にも厳しく、、生活必需品に対する買占め・売り惜しみなどに対する罪などを定めた。また、裁判においても被疑者・被告人を速やかに起訴・処罰することを意図しており、人権侵害や冤罪発生などの危険性の高い法律であった。釈放後も「非国民」呼ばわりされ、陰鬱で狂気じみた社会風潮となっていった。 |
空 襲 | |||
焼失家屋の人口 19,000人 罹災死亡者リスト |
1944年6月、サイパン島陥落後、アメリカ軍はB29爆撃機をもって日本の諸都市を空爆した。産業破壊、戦意喪失を狙った戦略的空爆である。先ず東京をはじめ太平洋側の主要都市を空爆し、海上輸送阻止を狙って機雷投下を行った。そして、日本海側で最初の空襲は敦賀であった。(昭和20年7月12日)米軍の空爆は的確に行われた。港・臨海地域・中心区を焼き尽くし、第二次(7月30日)ではの艦載機P47によって東洋紡・敦賀駅および港停泊中の艦船を爆撃した。 | 焼失家屋 4119戸(70%) 焼失・残存建物リスト |