日本海側でもっとも表日本に近い敦賀港は大陸植民地経営の橋頭堡、欧州への連絡港として未曾有の繁栄を得た。しかし戦後、増々太平洋側側に産業比重が高まっていき、東西冷戦のなか敦賀港の対岸貿易は激減、外国渡航も航空便が主流となり、往時の面影は無くなった。敦賀港の全国における地位も相対的に低下した。 |
復 興 | |||
空襲によって敦賀は壊滅的な状態となった。敦賀港は倉庫4棟、港駅舎が焼失したが、港j自体の機能は失わなかった。しかし、特に機雷の敷設、漂着による港の危険性が深刻であった。投下機雷数は329個に達していた。終戦から昭和26年ごろまで、港の空白期間といってもいいほどに沈滞した。この「死の海」から「生の海」に甦らせるべく、県・市ぐるみの敦賀港振興会が結成された。(昭和22年)賀湾の掃海はアメリカ海軍掃海部によってなさら、一応昭和21年2月ごろには湾内の航行の危険性はほとんど無くなった。昭和25年、安全宣言がなさっれた。 | |||
米海軍アルバトロス級。第2次大戦後期の代表的掃海艇 |
フェリー就航と港湾整備 | |||
1970年に北海道航路が開設されて大型フェリー「すずらん丸」が就航し、1973年に川崎松栄岸壁(現コンテナバース)が完成した。貨物取扱量が増加するにつれ、本港の及び周辺インフラが進んだ。各岸壁の整備はもとより、小型船船溜まり、港大橋、コンテナバースなどの建設が進められた。 | |||
港大橋と小型船舶停泊地 |
新日本海フェリー就航(昭和45年) |
コンテナバース |
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新 港 |
1996年6月、フェリーターミナルが同市川崎町から鞠山地区へ移転。同時に敦賀 - 小樽(現在は苫小牧に変更)航路に「すずらん」・「すいせん」が就航した。敦賀港貨物取扱量の半分を占める。近年、敦賀港国際ターミナルの完成や国際RORO船の就航などにより国際コンテナの取扱いを伸ばしている。2011年国土交通省により「日本海側拠点港」のひとつに選定された。 | |||
RORO船 |
北陸地方整備局敦賀港湾事務所提供(平成25年撮影) |
5万とん岸壁(2015年撮影) |
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定期航路 ○苫小牧(苫小牧港) :※RO-RO船 ○釜山 週2便。運航会社:興亜海運、長 錦商船 ○釜山 週2便。運航会社:サンスターラ イン ※RO-RO船 ○ウラジオストク 月3便。運航会社: TC通商、モルコンサービス |
月見御殿より新港 |
相対的地位の低下 | |||
古代以来、敦賀港は日本海と太平洋側を結ぶ要津であった。明治以降日本が近代国家として発展するなか、アジア大陸への進出、、権益拡大を進めていった、日本海側でもっとも表日本に近い敦賀港はその橋頭堡、欧州への連絡港として繁栄する。しかし、先の大戦で壊滅した。戦後、敦賀港は復興と新しい港湾として日本海側の重要港となったが、高度成長した戦後日本は太平洋側の産業の比重を増々重くしていった。また、モータリゼーションの発展は交通体系を変化させ、道路の近代化によって、鉄道貨物・水運の比重を低下させていった、敦賀港はその相対的地位を落としつつある。 | |||
港湾貨物取扱ランキング | 事実上廃線となった敦賀港線 |
戦後モータリゼーション | |
戦前対岸貿易などで敦賀港は日本海側で最重要港であったが、戦後の日本経済は太平洋側の比重は高まり、日本側港湾の貨物取扱量も相対的に低下している。貨物取扱量のランキングで50位内では、日本海側の港湾はわずかに23位の新潟港、46位敦賀港のみである。 国土交通省貨物量ランキング.pdf 国土交通者貿易ランキング |
戦後モータリゼーションの新興は、物流体系インフラは鉄道から道路(高速道路)へ移った。道路の近代化は、敦賀港の中継点としての役割を低下させている。古代からの地理的条件による敦賀の重要性は低下し、ますます、中継点から通過点になりつつある。 | ||
敦賀本港ウオーターフロント点描 | |||
金ヶ崎緑地は敦賀港開港 100 周年を記念する福井県の港湾整備事業として、1993年から整備が開始され2003年にグランドオープンした「憩いと賑わいの空間」をテーマとする敦賀港のシンボル緑地である。会場としても利用されており、その海沿いに敷設されたボードウォーク、ボードデッキからは敦賀港を一望できる。 | |||
金ヶ崎緑地 |
人道の港館 |
北前船モニュメント |
旧敦賀港駅(復元) |
本港夕陽 |
文化センター |
赤レンガ倉庫 |
きらめきみなと館 |
画像提供 印 敦賀市立博物館 印 『ふるさと敦賀の回想』より