北陸地方整備局敦賀港湾事務所 提供
昭和22年当時の市街『ふるさと敦賀の回想』より 敦賀市提供

敦賀の港はその地理的位置から、古代より日本海と太平洋を結ぶ重要な結節点として栄え、中世・近世には北前船の主要寄港ともなった。近代に至って殖産興業、大陸経営の橋頭堡として需要役割を担った。しかし、重要であったが故に太平洋戦争末期、連合軍によって空襲を受け、敦賀港および市街は壊滅的な被害を受けた。
太平洋戦争 敦賀空襲
  昭和20年(1945)7月12日深夜、敦賀空襲は日本海側で最初であった。貧弱な迎撃高射砲上を低高度で爆撃機B-29は大量の焼夷弾を投下した。  
 
当時敦賀市人口  31,000人

焼失家屋の人口  19,000人

焼失家屋       4119戸(70%)
 
何故敦賀に?
爆撃目標とされた都市の中で最小規模の都市だった敦賀がなぜ日本海側で最初に空襲を受けたか?敦賀港は朝鮮との三大定期連絡港で「重要な目標」になっていた。(米軍作戦任務報告書)また、関門海峡の機雷封鎖後、日本海航路の重要性が高まり、敦賀港の重要性が高まったこともあり、破壊すべき目標となっていた。
空襲
第一回目の空襲では、まず市街地東部の川東地区から火の海となり、児屋川と旧省の川に挟まれた川中地区に広がり、2時間ほどの爆撃で市内中心地区は灰塵熔と化した。
第二回、第三回の空襲は、小規模だが30日、8月8日に行われた。特に、8日のものは昼間9,100mの上空から東洋紡績など産業施設が狙われた。また、後に明らかになったことだが、8日に投下されたものは現ぢ爆弾の模擬弾であった。
『図説福井県史』23敦賀・福井空襲より
焦土と化した敦賀市街『ふるさと敦賀の回想』より  焼け残った施設

旧大和田銀行(現市立歴史博物館)

赤レンガ倉庫

鉄道ランプ小屋
復 興

石炭が山積みされている昭和24年(1949)頃の敦賀港

敦賀市 提供
戦後敦賀港の復活は戦前から盛んだった北海道、九州からの石炭陸揚げだった。。しかし、昭和30年代後半、石油エネルギーが主役になると、石炭ブームも姿を消した。
機雷の除去 石炭中継地 輸入木材  本港整備
戦、空襲、敗戦によって壊滅的な状態となった。特に、機雷の敷設、漂着による港の機能低下が深刻であった。投下機雷数は329個に達していた。終戦から昭和26年ごろまで、港の空白期間といってもいいほどに沈滞した。この「死の海」から「生の海」に甦らせるべく、県・市ぐるみの敦賀港振興会が結成された。(昭和22年) 石炭ブームに乗って荷役の機械化を進めるべく、五トン水平引込式起重機に着手した。財政難に落ち込んでいる市は、予算1500万円を国庫補助170万円、県補助金150万円、融資金150万円、残額1050万円を敦賀海陸運輸と10か年の専用権を与え、使用権の仮前払いをもって充当した。 1951年に港湾法による重要港湾に指定され、1957年ソ連との貿易も復活し、昭和34年以降、ソ連材の入貨が飛躍的に増加した。このため、昭和40年ごろから永大産業など加工工場の進出、貯木場の設置が相次いだ。対岸貿易の幕開けであった。 貨物取扱量が増加するにつれ、本港の及び周辺インフラが進んだ。各岸壁の整備はもとより、小型船船溜まり、港大橋、コンテナヤードなどの建設が進められた。また金ヶ崎地区では、市民の憩いの広場金ヶ崎緑地の建設、戦前の旧敦賀港易の復元がされた。

投下される機雷

蓬莱岸壁五トン水平引込起重機

ソ連材の筏木材

旧笙の川・漁船船溜まり

「ふるさと敦賀の回想」より
港湾整備と新港
第二次世界大戦後は石炭中継港の役割を担なっていたが、1951年に港湾法による重要港湾に指定され、1957年にはソ連との貿易も復活した。1970年に北海道航路が開設されて大型フェリー「すずらん丸」が就航し、1973年に川崎松栄岸壁(現コンテナバース)が完成した。1999年7月て金ヶ崎緑地などウォーターフロントが整備された。近年、敦賀港国際ターミナルの完成や国際RORO船の就航などにより国際コンテナの取扱いを急速に伸ばしている。2011年国土交通省により「日本海側拠点港」のひとつに選定された。
定期航路
○苫小牧(苫小牧港) :※RO-RO船
○釜山 週2便。運航会社:興亜海運、長 錦商船
○釜山 週2便。運航会社:サンスターラ イン ※RO-RO船
○ウラジオストク 月3便。運航会社: TC通商、モルコンサービス

北陸地方整備局敦賀港湾事務所提供(平成25年撮影)
新日本海フェリー
1970年に北海道航路が開設されて大型フェリー「すずらん丸」が就航し、1973年に川崎松栄岸壁(現コンテナバース)が完成した。しかし、1996年6月、フェリーターミナルが同市川崎町から鞠山地区へ移転。同時に敦賀 - 小樽(現在は苫小牧に変更)航路に「すずらん」・「すいせん」が就航した。敦賀港貨物取扱量の半分を占める。

RORO船

フェリーターミナル
相対的地位の低下   
  古代以来、敦賀港は日本海と都を結ぶ要津であった。そして、明治以降日本が近代国家として発展するなか、裏日本と表日本に両極化していく。人、もの、金が表日本に偏在していく。しかし、日本海側でもっとも表日本に近い敦賀港は大陸植民地経営の橋頭堡、欧州への連絡港として繁栄する。しかし、先の大戦で壊滅した。戦後、敦賀港は復興と新しい港湾として日本海側の重要港となったが、高度成長した戦後日本でも、太平洋側の産業の比重は増々重くなっていった。そして、モータリゼーションの発展は交通体系の変化させ、道路の近代化によって、敦賀港はその相対的地位を落としつつある。  
港湾貨物取扱ランキング
事実上廃線となった敦賀港線 
戦後モータリゼーション  
戦前対岸貿易などで敦賀港は日本海側で最重要港であったが、戦後の日本経済は太平洋側の比重は高まり、日本側港湾の貨物取扱量も相対的に低下している。貨物取扱量のランキングで50位内では、日本海側の港湾はわずかに23位の新潟港、46位敦賀港のみである。

国土交通省貨物量ランキング.pdf
戦後モータリゼーションの新興は、物流体系インフラは鉄道から道路(高速道路)へ移った。道路の近代化は、敦賀港の中継点としての役割を低下させている。古代からの地理的条件による敦賀の重要性は低下し、ますます、中継点から通過点になりつつある。
  敦賀港点描

本港夕陽

北前船モニュメント
 

金ヶ崎緑地と人道の港館

旧敦賀港駅(復元)

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