なぜ私がこんなことをしたのか知りたいのでしょう? そうですね、実際に難民が目に大粒の涙をうかべて懇願してくるのを実際に見れば、誰でも憐れみを感じるでしょう。それは同情せずにはおれないようなものです。かれら難民の中には、お年寄りや女の人もいるんです。彼らは必死のあまり、私の靴にキスさえしていました。(中略)人々の命を救うのに悪い事は何もないはずですからね…。それは人間愛、慈愛、そして隣人愛といったようなものです。
死の前年 (1985年)、千畝は自宅を訪れた人に語った『Wikipedia』より
「大勢の人が手を振って迎えてくれた。それまですべてが灰色で薄暗い人生だったが、本当に久しぶりに、温かなほほ笑みに触れることができた」と振り返り、「食べ物としてバナナを与えられ、おなかを壊すくらい食べた。今でもバナナを見ると敦賀を思い出す」米国・マサチューセッツ州在住サムイル・マンスキー、敦賀市長対談より(2008年11月)
「命のビザ」リレー
  1939年(昭和14)9月1日の早朝、ドイツ軍機動部隊は電撃的にポーランドに侵攻した。第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍の電撃的なヨーロッパ侵攻は翌年1940年にはフランスその他の国を占領した。その結果ポーランド在住のユダヤ人はナチの迫害から逃れるルートの一つ大西洋航路からアメリカに逃れるルートが閉ざされた。シベリア鉄道で日本を経由して太平洋を越えるコースしか残っていなかった。
 
   
  通過ビザの発給  
日本通過ビザ(命のビザ)発給
1940年(昭和15年)夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとし、最後まで閉鎖しなかった日本領事館に殺到した。領事代理の杉原千畝は人道的なビザ発給の許可要請を政府に行うも、7月28日、松岡外相直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられた。しかし、千畝はビザの発給を決断した。発行作業はベルリンへ旅立つ9月5日までビザを書き続けたとされる。駅のプラットホーム、汽車が発車間際まで発給し続けた。ビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚だが、記録されていなかったもの、一家族に一枚でよかったこともあって、延べ6000人のユダヤ人に発給された

 
リトアニア日本領事館領事代理 杉原千畝
1900年(明治33年)岐阜県八百津町に生まれる。1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部)予科に入学。外務省入省、1939年(昭和14年)にリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。
第二次世界大戦勃発シベリア経由〜敦賀 逃避行
ユダヤ難民は杉原千畝が発給した日本通過ビザ「命のビザ」でシベリア鉄道で日本に向かった。シベリア鉄道での逃避行も困難で悲惨なものであった。停車のたびにソ連の秘密警察が乗り込み、金品、貴金属を奪い、若者はシベリアの強制労働に拉致されて行った。終着のウラジオストクに着いた時には着のみ着のまま、トランクの中は空になっていた。










日本領事館でビザ発給を訴えるユダヤ人
  日本海渡航   
JTB大迫辰彦の活躍
在米ユダヤ教会は、ユダヤ難民救護会を組織し、戦前の社団法人ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現株式会社JTB)に斡旋の協力を依頼してきた。要請の内容は、日本海を敦賀経由で日本に入り、アメリカへ送り出すまでの斡旋をすることだった。敦賀・ウラジオストック間の航路に添乗員大迫辰彦を派遣して、ユダヤ人輸送の斡旋に当った。昭和15年H月10日、敦賀港出帆のハルピン丸を第一船として輸送を開始、昭和16年6月まで、十ヶ月にわたって、毎週一往復を運航、この間、15000人に及ぶユダヤ人の輸送を実施した。その中に命ビザでやって来たユダヤ難民も含まれていた。。
JTB『文化交流通信』より
 
ユダヤ難民を渡航させた天草丸
敦賀市立博物館提供
通過ビザの再審査・根井三郎の活躍
「本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事」といった外務省本省通達に対して、ウラジオストク総領事代理・根井三郎は、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。本省とのやり取りは五回に及び、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。
  敦賀港上陸  
敦賀市民の受入れ
過酷な状況で上陸したユダヤ人難民に国際港の敦賀市民は、外国人を珍しくは思わなかったが、、あまりにみすぼらしい姿に驚いた。戸惑いもあったであろう。しかし、心温まるエピソードが残っている。ひとりの少年が難民に果物の入った籠を無償で置いていったり、銭湯の主人は浴場を無料で開放した。また、駅前の時計店の主人は、彼らが空の財布を見せながら空腹を訴えたため、彼らの所持していた時計や指輪などを買い取り、さらには台所にある食べ物を渡した。しかし、無償で提供した銭湯には気持ち悪がってしばらく利用しなかった市民もいた。

戦前の敦賀港
敦賀市立博物館提供

敦賀駅前通り
敦賀市立博物館提供
命のビザを繋いだ男  小辻節三   
小辻節三略歴
1899年2月3日、京都生まれ。父喜三郎は京都の加茂神社の神官。明治学院大学神学部卒業後、1927年7月渡米。ヘブライ語の勉強を始め、高名なバデー教授のいるパシフィック大学(カリフォルニア州)で学ぶ。一時帰国し、青山学院で教壇に立つ。1938年、南満州鉄道(満鉄)総裁(松岡洋右)から、「総裁のアドバイザー」として招聘を受ける。多くのユダヤ人と交流をし、ユダヤ人迫害の実態をより鮮明に知ることになった。
ユダヤ人の多くは、日本で唯一ユダヤ人のコミュニティがある神戸に向かった。。彼らを最も悩ませたのは、杉原ビザで許可された滞在日数はわずか10日。小辻節三は滞在期間の延長を行政に掛け合う。小辻は外務省の管轄部署を回った。しかし全く耳を貸そうとしない。小辻は満鉄時代総裁松岡洋右のブレーンを務めていた。松岡洋右は外務大臣になっていた。小辻は外務大臣室に飛び込んだ。ビザ延長の権限は、神戸の自治体にある。君が自治体を動かすことができたら、外務省は見て見ぬふりをしよう、と言質を得た。外国人の滞在許可の窓口は警察署。神戸一の料亭に彼らを招待し、そのための軍資金を義兄から融通してもらい接待は3回に及んだ。仲良くなった3回目で、小辻は初めて滞在期間延長のお願いをし、警察幹部は小辻の要望を受け入れ、1回の申請で15日間ずつ延長することが決まった。申請を重ねれば、長期滞在も可能となった。小辻節三へリンク

ダビデの星
展示館
 
人道の港 敦賀ムゼウム
人道の港 敦賀ムゼウム 公式サイト

杉原千畝生誕地「人道の丘」
(地岐阜県加茂郡八百津町八百津町)

人道の丘公式サイト

展示館内部1

展示館内部2
 
「人道の丘」展示館

杉原千畝生誕地付近集落 
ポーランド孤児上陸
   1795年の第3次ポーランド分割によって、ポーランド人は祖国をロシア帝国によって併合された。ロシア帝国政府はポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時でもシベリアには相当数のポーランド人がいた。1818年11月のポーランドの独立によって、多数のポーランド孤児がシベリアに取り残されてしまった。親や家族からはぐれた子供たちは、極寒のシベリアの荒野を飢餓と戦いながら放浪を余儀なくされていた。  
孤児の救済
その惨状を知った日本(日本赤十字社が主体となった)はシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた。1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。貞明皇后も孤児たちを訪問している。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。

Poliish orphans in tsuruga 1920?
敦賀の松原での孤児たち
敦賀市提供
ポーランド孤児日本上陸
大正9年(1920)6月18日に救済委員会のアンナ・レリーバ・ビェルキェビッチ女史が日本政府に救済を求め、翌月の7月20日、日本陸軍の輸送船「筑前丸」によって第一陣の56名(他に付き添い5名)がウラジオを敦賀に向けて出港し、続いて輸送は5回に分かれ、375名の孤児たち(他に付き添い33名)が敦賀港に上陸した
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