天筒山で遊んでいた悪童仲間、最年長の少年が「これから隠れ里に行こう」と言いだした。五人のなかで二人が「行こう行こう」と応える。最年少の私は何も言えなかった。隠れ里とは、天筒山や周囲の山に囲まれた中池見湿地のことである。悪童仲間では隠れ里と称している。秋の昼下がり、天筒山の急斜面をつづら折りの下り道をたどった。私は少しの冒険心を感じながら、最後尾に従いていた。中池見には農作業をする大人も見えず、しんと鎮まり、もう天筒山の影を受けていた。少年たちは中池見に着き、少し大胆になって、小川にいる亀を捕ったり、田んぼの田螺を採って遊んだ。それから、一時間もしないうちに、最年長の少年が「さっ、帰ろう!」と宣言。天筒山の薄暗くなった東斜面を登り始めた。最年少の私はやはり最後尾だった。他の少年から少し離され気味だった。少し、心細くなった。振り返って中池見を見ると、何時の間にか全く天筒山の濃い影の中にあって、中央のあぜ道が浮き上がってまっすぐ伸びている。心細さと気味悪さで、皆に追い着こうと足を速め、山をよじ登った。嶺にたどり着くまで振り返らなかった。嶺に着く。木々は西陽を受けて臙脂色に染まっている。カラスの群れが鳴き声を交わしている。灯がつきはじめた眼下の町へ急いだ。
里山の生きものたち
 
長らく休耕地として放置されていた中池見は、国道8号線バイパスの建設以外、宅地化などの開発から免れ、希有な里山の形態を残し、里山では普通に観ることができた動植物が生息している。環境省のレッドデータ種について、60種以上、トンボ72種、鳥類160種以上等が生息している。また、周囲の山々にはツキノワグマ、ニホンカモシカなど哺乳類のほとんどの種が棲息しており、健全な生態ピラミッドが形成されている。  

 
天筒山のかもしか
 

ゴイサギ 
 
ホオジロ
 
キジ

ベニマシコ 
 
カシラダカ
 
ゲンゴロウ
 
チュウサギ

セグロセキレイ 
 
キンラン
 
スズガモ
 
ミズニラ
 
トチカガミ
 
タニシ
 
メダカ
 画像・コピーはHP「NPO法人中池見ねっと」より引用
中池見湿地の地史
  中池見湿地は,福井県敦賀市にあり、三つの低山に囲まれた面積約25ヘクタールの内陸低湿地であり、泥炭湿地でもある。分類的には、フェンにあたる。日本の地形レッドデータブックにも保全を要するに最も価値ある地域として記されている。2012年には、越前加賀海岸国定公園の一部として追加指定され、同年7月3日、ラムサール条約に登録された。中池見湿地の価値は、「絶滅危惧種博物館」と称されるところにもある。   
   
  悠久の営み  

 更新世後期(氷河期) 

更新世後期(氷河期) 

 縄文期

弥生期 
近世以降の歴史
数万年の地史を刻み形成された池見湿地、近世の新田開発までは、杉の巨木が生い茂る湿地であったと推定できる。新田開発以降、幾多の変遷を経ながら、現在の貴重な湿原として存続した。
  金ヶ崎の退き口  
池見が最初に歴史に登場するのは、元亀元年(1570)戦国時代、織田信長軍が天筒山城を攻めた金ヶ崎の退き口時である。池見は天然の堀の役割をはたしていた。大木などが繁る鬱蒼としたる底なし沼の様相をしていたようで、そのため池見側は安心して“逆茂木” 程度の固めしかせず手薄であった。そこを狙って織田軍は比較的勾配が緩やかな南東方面から攻め天筒山城を落とした。   云テ、諸軍勢天筒ガ峯へ向カウ。然ルニ、此天筒ガ峯ト云ハ、後深キ沼田ナレバ、敵モ轍ク寄ラジト思、少々柵ノ木計卒度結ヲ置ケル処ニ、信長沼ノ深キヲモ云ズ、馬ヲ颯ト打入レテ、一文字ニ渡ス程ニ、諸国ノ軍兵ドモ、我不劣ト身命ヲ不惜責上ルヲ、内ヨリ石弓、筒突、大石ヲ落シカル程ニ、討レテ死スル者幾バクゾヤ
『朝倉始末記』
  江戸期新田開発  

新田開発地図
江戸期に入って、幕府、諸藩は新田開発を盛んに行った。しかし、小浜藩の敦賀郡では太閤検地までにほとんど開発し尽された土地事情もあって、その率は全国平均より極めて低い。わずかに、柴田権右衛門による市野々新田開発があり、湿地帯である池見までも開発の対象になった。若狭藩と樫曲の農民によって新田として開発された。(当初は市野々の豪農柴田権右衛門が計画)中池見の開発は、1688年(元禄元年)樫曲(かしまがり)村の庄屋九郎兵衛を中心に進められました。池見は沼地であり、その水を抜くことが先決と考え、最新技術による三本の排水路が設けられ、開発が進められた。1690より田んぼとして利用されるようになった。



池見新田見地の名請人の請高
新田開発の過酷さを唄う「こまりうた」
今日も来い来い 明日も来い来い 三村たおしのくろべいから
減反施策と中池見 開発と保全の歴史

全面的に田んぼが占めていた
湿地帯に開発された中池見の田は深田で、過酷な農作業を強いる。太平洋戦争以前、戦後30年代頃までは、農地改革などがあり、農業生産意欲の向上が上がった。しかし、、農業技術の向上、食事の欧風化などがあり、過剰生産に対する減反政策が行われると、中池見は大きく変貌していく。休耕田が増え、終には中池見全体が休耕地から放置された湿原に戻っていった。敦賀市民さえ知らない存在となった。休耕地は得てして、宅地開発などによって里山の形を無くし、生態系を破壊することが多い。しかし、中池見は地理的条件から里山の形態を残し、貴重で豊富な生態系を保存した。
 

中池見を横断する国道8号線
 
 国道8号線バイパス1988年(昭和63年)国道8号バイパス要地買収、同12月着工。8号線バイパスは樫曲トンネル福井口出口から約150メートルにわたり、最大で約30センチ沈下している。バイパス建設による水環境の変化や周辺の人工構造物の地震被害にも警鐘が鳴らされている
液化天然ガス基地1992年に大阪瓦斯(大阪ガス)が液化天然ガス基地の建設計画を発表など、中池見の自然資産を破壊しかねない開発が行われ、発表された。開発による貴重な自然資産を守るべく、中池見湿地トラストの活動が始まりJAWAN、日弁連、日本生態学会・中池見アフターケア委員会を巻き込んだ地道な市民運動となっていった。。中池見湿地に立つと、こずえを震わす風の音、鳥のさえずり以上に国道8号線を走る車両の間断なき走行音が耳を衝く。
中池見湿地の保全と危惧
  絶滅危惧種の博物館ともいわれる中池見湿地、里山の原風景は四季折々の顔を見せている。その保全と広報活動は「NPO法人中池見ねっと」中心に続けられているが、北陸新幹線のルート問題、国道8号線の地盤沈下など生態系への悪影響危惧も存在している。  
四 季 点 描








羽鳥聡氏提供
 
ビジターセンター展示より作成 

復元された敦賀の古民家



雨の池見

アオヤンマ確認
 中池見湿地だより 

外来種除草

冬の生物探し
 
バードウォッチング
 
ザリガニバスターズ
  画像提供 『中池見湿地だより』    
  国道8号線と北陸新幹線の危惧   
     

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