そして今日はこの峠の麓へ本隊を移して、いよいよ明二十八日から一挙に朝倉氏の本拠一乗ケ谷への前進路へ出ようというのであった。.....(中略)......「小谷城より、浅井備前守の使者として小野木土佐がまかり越しました。織田殿にお取次ぎを」......(中略)......「岐阜のお館には、浅井、朝倉、織田三家の同盟の誓書をふみにじられ、朝倉家を攻められる。これ義をもって、最も重しとするわれ等が主人の、断じて承服罷(まか)りならぬところ、依って、浅井、織田の両家の交わりはこれまで、誓書返却の上、改めて織田勢に一矢おむくい申すと、これが口上にござりまする山岡荘ハ作『織田信長』(4)講談社刊より
信長軍敦賀侵攻 
元亀元年(1570年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)をもって京都を出陣諸将を集めて10万余の大軍となって西近江路を北上。九里半越えから若狭国に入り、熊川宿に一泊し、23日には朝倉氏の勢力と接する若狭三方郡の国吉城に入城した。24日も越前攻めに備え、、25日、織田徳川連合軍は、天筒山城を攻めむと、越前国敦賀に侵攻した。本陣を妙顕寺(敦賀市元町)とした。対して、朝倉側は朝倉景恒を総大将のもと金ヶ崎城に籠った。天筒山城には気比社の社家、嶋、宇野各氏や上田、中村、吉川、萩原入道など1500騎など立て篭もっていた。  
戦いの推移 天筒山城攻略
10万余の信長軍は、信長自身が先頭に立って、天筒山城攻略を開始した。信長軍の編成は、先頭の信長に続いてその一族、そして柴田勝家、丹羽長秀などの重臣達、その後に松永久秀、池田経興、徳川家康などの諸大名が後詰した。足軽大将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)は遊軍となって天筒山、金ヶ崎城周辺の在所など放火して回った。天筒山の東側は急峻で、その下は池見の湿地帯であった。籠城軍はその方面への防御を比較的手薄にしていた。本来、天筒山城の弱点は、海岸に沿って東に延びる山地からの攻撃に対してであった。また、圧倒的な信長軍の包囲に対して、主力を西側からの攻撃に対陣せざるを得なかった。東南を天然の防禦線としてと頼んでいた。そこに、信長に攻撃の糸口を与えた。

信長軍は天筒山の南東方面から一気に攻め上げた

池見湿地は江戸期以降盛んに新田開発されたが、それ以前は深い沼地であった。
  天筒山城開城  
天筒山城の激戦
信長を先頭にして、信長軍は天筒山城東南の池見湿地から一気に攻めのぼった。圧倒的な兵数の苛烈な攻めは、一日にして天筒山城を陥落させた。金ヶ崎城にあった朝倉景恒も、天筒山城に来て戦ったが敗れた。この戦いの死者を朝倉始末記は500余りと伝えるが、信長公記は「頸数千三百七十討捕」と記している。また、激戦の結果信長軍側の死者も1500名余と「朝倉始末記」「言継卿記」は記する。武将の戦死も、朝倉方では三段崎弥七、同四郎左衛門、上田兵部丞の家臣団に気比社家衆の別当、嶋、宇野、小木氏などであった。信長方では、森十郎三郎、毛利河内守など名だたる武将も入っていた。

朝倉景恒金ヶ崎城を開城する
織田信長は天筒山城を攻略すると、金ヶ崎城の朝倉景恒の降伏を勧告する。景恒は一乗谷の朝倉義景本隊の支援が遅れていることから、金ヶ崎城を開城し、府中(現越前市)で合流しようとした
浅井長政の参戦
  浅井家は代々越前国朝倉家とよしみを強くしていた。しかし、織田信長妹お市の方が浅井長政に嫁したことから、信長とも同盟関係が生まれた。しかし、名目上足利義昭の朝倉氏討伐とはいえ、一方的な信長の越前進攻に浅井家は岐路に立った。最終的に浅井家は朝倉氏との同盟を破棄することなく、信長に兵を動かした。   
浅井長政背後を衝く
倉景恒を降伏させた信長は敦賀町中の妙顕寺に陣所を定め、木の芽峠を越えて朝倉氏の本拠一乗谷に攻めるべく軍議を重ねた。(栗谷勝久軍功記)その時、北近江の浅井長政(信長義弟)が朝倉氏に味方して、小谷城を発した報が次々と届く「言継卿記」「信長公記」(信長の妹お市の方が、小豆袋の両端を結んで知らせたいう、伝説は事実とは考えにくい)北近江小谷城から敦賀へは約9里(36km)の距離である。


小谷城千畳敷曲輪
信長軍がそのまま木の芽峠を越えたなら、一日にして、浅井軍は北陸道、北国道、七里半越えを制圧して、糧道を断つことができる。また、朝倉義景の本隊が一乗谷を発して、27日には府中(現越前市)に進行していた。妹婿浅井長政の離反によって、信長軍は一気に重大な局面を迎えるのであった。信長は躊躇なく決断したのであろう、28日には敦賀を発して、丹後道(若狭路)を三方郡左柿の国吉城に向かった。その後、若狭国熊川宿を経て、九里半越えで朽木街道から京に帰還した。
九里半越え(鯖街道)熊川宿
  退き口  
  近江高島郡朽木元綱の味方
信長は敦賀から丹後道を国吉城、九里半越え、そして朽木越えで京に戻った。この行程の中で、近江高島郡を領していた朽木元綱の味方が最大のポイントといえる。また、朝倉軍の内部分裂による進軍の遅れと織田軍の統制力が際立っていたこともある。迫りくる朝倉・浅井軍に対する殿軍で木下秀吉の働きに対する感状が与えられた。 
 
金ヶ崎・天筒山城址点描
金ヶ崎城は敦賀市北東部、海抜86メートルの敦賀湾に突き出した小高い丘に築かれた山城である。 源平合戦の時、平通盛が木曾義仲との戦いのために築いたと伝えられる。1336年(延元元年/建武3年10月13日、恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城。室町時代、越前守護斯波義敏は守護代甲斐氏が立て篭もる金ヶ崎城を攻撃するも、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗した。(長禄の戦い)現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されている。天筒山城は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城である。金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている。遊歩道が整備されている。   

金ヶ崎城址(月見御殿)より

天筒山頂上より
  金ヶ崎城  

金ヶ崎城址

水の曲輪、今も兵糧焼き米が出土する。

一の木戸

城址碑
  天筒山城  

天筒山頂上

郭 跡

切岸

堀切
  遊歩道  

秋の遊歩道

シャガの群生 

天筒山頂上休憩所
 

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