国吉城主若狭武田氏蜂屋越中守勝久は越前朝倉氏の攻勢に最後まで抵抗し、織田信長の朝倉攻めでは、敦賀進行の中継所となり、金ケ崎の退き口では信長の帰京を援けた。椿峠から若狭道を扼す堅城であった。 |
若狭国国吉城と栗屋勝久 | ||
国吉城は越前国敦賀から若狭国に入る丹後街道の要所にある。(福井県美浜町佐柿)弘治2年(1556)築城の山城である。当時の若狭守護武田氏の支配下にあり、城主は重臣粟屋越中守勝久であった。武田氏内部分裂、衰退後も越前朝倉氏に抗し、永禄6年(1563)から数年にわたって籠城戦を戦い抜いた。丹後街道を扼する位置にあり、若狭国防衛の前衛となった。椿峠に連なる通称城山の頂上(標高197.m)に本丸があり、北西の椿峠まで階段状の曲輪を造成して守りを堅くした。若狭武田氏滅亡後、元亀元年(1570)織田信長の越前攻め、金ヶ崎退き口の中継基地となった。栗屋勝久は丹羽長秀の下で若狭衆として活躍する。再度の信長軍の越前侵攻(刀根坂の戦い)に参加、一向一揆討伐には海上軍として攻めた。その後、城主は代わったが、一度も敵に奪われることもなく、江戸期に入り、一国一城令によって多くの山城と同じく廃城になる。 | 越前朝倉氏は丹後街道を扼する国吉城を攻略すべく攻撃を重ねた。国吉城の周囲に攻撃のための付城を築き、執拗に攻めたが、栗屋勝久はゲリラ戦でよく耐えた。 | |
国吉城歴史資料館『国吉城籠城戦動向図』 |
国吉城周辺 | |
国吉城東方 |
朝倉方付け城 |