金ヶ崎の退き口 木下藤吉郎の戦いを小説で読む |
退陣の先頭には、精強な三河衆に護られた徳川家康が立ち、六つ半(午前七時に馬首をそろえて駆けだす。つづいて佐々内蔵助鉄砲隊三百余人が、若狭海道の一揆にそなえ、土煙りをあげ早駆けで佐柿の栗屋館へ向かった。信長は屈強の馬廻り衆百余騎を率い、佐々衆のあとを追う。つづいて丹羽、柴田の同勢が駆け、三万の諸軍は潮の引くように去っていった。 前夜まで勝ち戦気勢をあげる軍勢が騒(ざわ)めいていた、敦賀口の陣跡は、わずか一刻(二時間)ののちには閑散寒々として、鳥の鳴きかわす声が耳につくばかりになった。 木下勢は撤退していった軍勢が残していった馬印、幟、差物を、山といわず、谷といわず林立させ、陣跡には炊煙とみせかけ、篝火をさかんに焚かせる。 藤吉郎に従う人数は、川並衆千二百人である。出陣はに際し、彼の寄騎(よりき)になった近江の地侍衆は、出陣に際し、彼の寄騎となった近江の地侍衆は、危険な後衛を嫌い、退陣していった。 藤吉郎は、小六、将右衛門らと相談して、全軍を三段の備えに分けた。 一段の備えは、舎弟木下子一郎(秀長)が三百余人とともに、金ヶ崎城に陣取った。小一郎を扶けるのは、小六、将右衛門、をはじめ、加藤作内、木村常陸介、土田甚助、長江半之丞ら川並衆をよりすぐった精鋭である。 二段の備えは、若狭街道沿い金ヶ崎城と五町をへだてた高処に置き、大将木下藤吉郎が三百八十余人を指図して、布陣する。 三段の後備えは六百余人。浅野弥兵衛(長政)、桑山修理が頭役となった。陣所は切り通しの要所をえらび、二段の備えとは十町をへだてた。 金ヶ崎城には織田勢本陣を置いたように見せ、信長の馬標、幟、数百流を立てつらねている。 城内にたてこもる三百余人は、二百挺の鉄砲をそなえ、朝倉勢が押し寄せてくれば。かなわぬまでも支えようと、全滅を覚悟していた。 二段、三段の陣営も、無数の旗幟をひるがえし大軍の陣所に見せかけた。 物見頭の稲田大八郎は、木ノ芽峠に追っている朝倉勢の動静を探索しては、藤吉郎に注進する。 「峠の陣には朝倉中務尉が大将となり、刻々といきおいを増しきたり、一揆勢も合力して、容易ならぬ形勢にござるわ。いま総攻めをかけられなば、われわれはひとも揉みに揉みつぶさるるは必定だで」 藤吉郎は武者震いをしつつ、配下の士卒を叱咤する。 お殿さまが駆けだされてよりのち、二刻(四時間)の勝負だぎゃ。二刻を支えなば、われらも退く。無駄な手合せは無用。ひたすら時を稼ぐのでや」 川並衆の猛者どもは、林間に身を隠し、いまにも馬蹄のとどろきと喊声が聞こえてくるかと、待ちかまえた。 陽がのぼるにつれ、西風が吹きはじめた。五月晴れの空の高みに胡麻つぶを撒いたように鳶が舞い、敦賀湾の海面は白光をたたえている。 蝉の声が尾をひく、おだやかな初夏の眺望のなかで、朝倉方の物見の小部隊がしきりに出没していた。 金ヶ崎城一の城戸(きど)の曲輪(くるわ)から、蜂須賀小六、前野将右衛門が、守将木下小一郎とともに、しだいに追ってくる朝倉勢の動きを見張っていた。織田の総勢が若狭街道を退却していったとの通報は、朝倉方にとどいているはずであったが、金ヶ崎上に立てつらねた生絹(きぎぬ)地に永楽銭の、信長の旌旗を見て、警戒を解きかねたのであろう。たやすく攻撃をしかけてこなかった。 小六たちは、敵の物見が間近に迫ると、二百余挺の鉄砲を斉射して山野を震憾させる。巳の上刻(午前十時)になって、ようやく寄せてきた朝倉勢は、金ヶ崎城を取り巻く。なおも攻めかけてこず、静止しているのは、織田方の計略に乗せられまいと用心しているのである。 「浅井の手はいま着到せず、朝倉がかような気迷いを見せてくるるとは、ありがたや。この体ならば、尻払いの役儀もまずは成就いたすであろあず」 小六が古い刀疵の目立つ頬をゆがめて笑った。小一郎が眼下の敵勢を見渡していう。「かくまで取り囲まれては、斬りやぶって落ちのびるのは、難儀だで。槍衾(やりぶすま)を立てて走るほかに、すべもあらまい。将右衛門、敵はまず六千と見たが、いかがでや」 旗差物を背に、密集している敵の兵数はおびただしかった。 五町の道をはしるあいだに、どれだけの味方が打ちとられる予測もつかない。川並衆の精兵たちは、心中で死を覚悟していた。 小一郎たちが、城に入って二刻半(五時間)が無事に経った。陽は中天を過ぎていた。 身軽な鎖装束をつけ、三間半柄の片鎌槍を手にした小六が、同勢に下知した。 「これより城を出て、二の段の陣へ駆けこむでや。総勢一手となって、槍衾を組んで朝倉勢のなんなかを突き抜いてゆくでのん。遅るるでないぞ」 金ヶ崎城は、建武三年(一三三六)、新田義貞が足利勢に追われ、恒良(つねなが)親王、尊良(たかなが)親王を擁して籠城した。無双の要害として聞えていた。 「太平記」には、「かの城の有様、三方は海によって岸高く、岩なめらかなり。巽(たつみ)(東南)のほうにあたれる天筒山ひとつ、城よりたかくして」と記されているが、天筒山とのあいだにもふかい崖があった。 地形を知りつくした朝倉勢も攻めあぐむ様子で、法螺貝、陣鉦、攻め太鼓の音もおこらず、大軍の寄せてくる遠雷のような地響きのみが聞こえるなか、一の段の守兵三百余人は城を出て、海沿いの崖を樹間に身をかくしつつ下ってゆく。 大木の参差する小暗い山道を浜へ出ようとした嚮導(きょうどう)の軍兵が、足をとめ合図する。 木下小一郎、小六、将右衛門が前に出て様子をうかがう。浜辺には城攻めの陣立てをととのえた朝倉の侍衆が、長槍をつらね群がっていた。 弓衆、鉄砲衆、手槍衆も終結を終え、太鼓番、使い武者たちは、本陣の指図を待ち、砂上に折り敷きまちかまえている。 その背後に、揃いの紺地御貸し具足に身をかためた、数も知れない足軽勢が、弾丸(たま)よけの竹把(ちくは)、鉄盾のほか、長梯子、井楼(せいろう)を押したて、ひしめきあっていた。 「これはわるいところへ出会わせたでねぇーか」 「うむ、いまさら帰るわけにもいかぬだわ」 小六たちは顔をみあわす。 彼らは朝倉勢の手薄な場所をえらび、脱出するつもりできたが、行く手は敵兵で埋まっている。 「道をかえるきゃあ」 「間にあうまいでや、城のまわりはいずこも変わりあらまい。いけ、まっすぐ走って突き抜くよりほかに、道はにゃあ。かねての相談の通り、槍衾をつらね、敵を斬り破って走ろうでや」 川並衆は長槍おw持つ兵を前後左右に配置し、内側に鉄砲衆を置く、槍衾の輪形陣を組むと、攻め太鼓を打ち鳴らし、喉も裂けようと雄叫びをあげ、浜辺に躍り出た。 不意の襲撃に狼狽した朝倉勢は、四分五裂して逃げ散る。 「それいまだでやあ」 木下勢は長槍をつらね、敵中に突っこんでゆく。 槍衆に守られた二百余人の鉄砲衆は、五十挺ずつ交互に射撃をくりかえし、敵の猛勢をくいとめた。 小六は愛用の銀象嵌もまばゆい二連短筒で、騎馬武者二人を瞬間に射落とすと、片鎌槍をふりあげ、眼のまえにたちふさがる侍勢に襲いかかった。 白兵戦に慣れた小六は、槍の長柄で敵の兜をなぐりつける。重い甲冑をつけている武者は、頭、肩、腰に荷がかかっているので重心がさだまらず、うちすえるとたちまち体勢を崩す。 必死で太刀、槍をふりあげ、頭上を防ごうとするところを、小六はすかさず下からはね突き、突き伏せた。 戦場往来をかさねた古つわものと見れば、敵の槍を上から打ちつけておいて突くか、打ちつけて敵の槍先がうわずった隙に、下から脚、股、両肘(ひじ)、腋(わき)の下をはねあげて突く。 川並衆は鎖装束をつけているので、身軽であった。小六は耳を聾する怒号、叫喚、銃声、攻め太鼓の音響の坩堝(るつぼ)のなかで、返り血に染んだ顔をせわしくふりむけ、味方の陣形が乱れていないかをたしかめた。 小六が育てあげてきた撰りぬきの精兵たちは、四方に壁のようにつらなる敵勢のなかで、彼の手足のように乱れず戦っていた。 「あと一町であ。二の段は眼のまえだぎゃあ」 小六は絶叫する。 将右衛門は槍の穂先を突き砕いたので、甥の樫棒をうけとり、縦横にふりまわして血路をひらく。 二の段の陣から、藤吉郎の手勢三百八十人が斬って出て、小六たちと合流した。 藤吉郎は声をふりしぼって下知した。 「お殿さまはもはや若州道を逃れなされ、ご無事は疑いないだぎゃあ。このうえ無用の駆けあいに命をおとすな。この場を駆けのがれ、三の段と一手二になれ」 信長退却を知って朝倉勢は,前の山、後の山、街道筋から雪崩のように追ってきた。 浅野弥兵衛(長政)らの固める三の段の後備えまで、二の段から十町余の街道筋は、先まわりした朝倉勢で埋まっていた。 藤吉郎、小六らは、やむなく山中ひぇ分けいり、三の段の陣にあがる合図の狼火を頼りに後退した。 「人は構わず、わが身ひとつを銘々凌ぎに走れ。一命軽しと思うでねあー。ひとりなりとも多く逃げおおせよ 藤吉郎が叫び、川並衆はわれ先にと走る。 「行き先は加屋場追分け口でや。煙を目当てぞ」 五人、十人と分かれて山肌を這いのぼる味方は、追いすがる敵勢を振りきって、指を血に染め岩角を伝ってゆく。 蜂須賀党の前野清助、九郎兵衛尉、加藤左内ら若手の精鋭は後尾を守り、揉みあい、押し寄せる朝倉勢をくいとめようと、荒れ狂う。 馬はたおれ、槍先はくだけ、太刀はささらのように歯こぼれして、数十倍の敵中にとりかこまれ慙死にする者があいついだ。 前途を塞がれた木下勢が、もはやこれまでと進退きわまったとき、巽(東南)の山の頂から、突然百雷の鳴りわたるような轟音が響き、谷間に真黒の硝煙がたちこめた。 藤吉郎は、追いすがってくる朝倉勢が隊伍を乱し、逃げ散るのを見て、味方の鉄砲隊が救護にかけつけたと知る。 銃声は続けさまに響き渡った。 「佐々の浮き勢だぎゃあ。いまだでや。逃げおおせよ」 樹間にひるがえる旗幟を見分けた藤吉郎が、声を嗄らしてくりかえす。 佐々鉄砲隊三百人は、佐柿へ無事に到着した信長の命により、木下勢に合力するため、ひきかえしてきたのである。 藤吉郎は白刃を手にした五人の若侍に守られ、手槍をひっさげ息を切らせて三の段から迎えに出た軍兵と行きあう。 若狭街道追分け口、加屋場の高処に陣を敷く三の段へ、ようやくたどりついた藤吉郎は大声(だいいん)に下知をくだした。 「山谷に火をかけよ。夜に入るまでこの場を一歩も退くな」 浅野弥兵衛配下の軍兵は駆けまわって、かねて用意した薪(たきぎ)、枯草に油おwかけ火を放つ。 一帯の尾根筋一町あまりのあいだに、紅の布をひきのべたように火焔が燃えあがり、西風にあおられ、朝倉勢の寄せてくるほうへひろがっていった。 加屋場の木下勢最後の陣所から、西風に煽られ燃え走る火焔は、野を焼き山を焼く。押し寄せる朝倉勢の形勢さえ見分けられないまでに、視野に白煙が立ちこめた。 三の段へ辿りついてくる川並衆は、具足の袖はちぎれ、刀槍は折れゆがみ、頬はそげおち全身泥にまみれ、深手、浅手に黒血をしたたれせて、殺気を放射する眼光のみ炯々(けいけい)と光っていた。 「どの面も揃うて、閻魔大王の家人がごとき人相でねあーか」 味方を元気づけようと、小六が高笑いをひびかせたが、胸中は悲哀にとざされていた。 三の段まで逃げおおせた味方は、半数に満たなかった。姿をみせない肉親の安否を気づかい、敵中へとって返そうとする武者を、仲間が懸命にひきとめる騒ぎが、陣中におこっていた。 小六、将右衛門は幾度となく迎えの兵w出し、残兵の収拾につとめたが、ついに朝倉勢が眼前に肉迫してきたので、やむなく引きあげる。 藤吉郎は軍兵の人数をあらため、一の段、二の段あわせて六百数十人が、三百足らすに討ち滅らされたのを知った。 彼は声をはげまし、陣中の兵に告げた。 「諸人ともに、よく聞きゃあせ、われらはこの場に踏みとどまり、日の暮れるまで堪え凌がねばならぬ。ひとりのこらず斬り死ににいたすまで、退くでないぞ」 敵中を斬り抜けてきた男たちは、たがいに顔を見あわせ無事をたしかめあい、それぞれ手疵の手当てをほどこしたのち、腹ごしらえをした。 「敵を食わねば、多勢を相手の出入りに手足が動かぬであや。無理にも喉へ押しこめ」 戦場往来の古つわものが、顔色青ざめ肩で息をついている若侍に、干飯(ほしい)袋の紐を解けとすすめている。 谷間の岩清水に喉をうるおし、つかのもの休息をとる軍兵の表情に、動揺の色はなかった。 小六は余念なく干飯を噛んでいる将右衛門にいう。 「どれもこれも、観念の面差(つらざ)しだわ。今宵の退き口には、また数多き死びとを出さずにすまぬでや」 将右衛門は黙ってうなずく。 肉親、朋友を失って、なおも死地にとじもめられている男たちには、わが身の破滅がさほどおそろしいものではなかった。 山火事は陽が落ちるまで燃えひろがるばかりで、朝倉勢は足場のわるさに攻めあぐむ。加屋場の陣所はようやくもちこたえ、夜がきた。 一の段から後退してきた木下鉄砲隊の残兵と、佐々鉄砲隊の必死の射撃に、敵は前進のいきおいをくいとめられているが、木下勢が後退をはじめれば、たちまち追撃してくるであろう。 防御の態勢をとれない総退却のときに、追い打ちをかけられた軍勢甚大な被害をうけなければならない。 昼間から死にものぐるいの戦闘をつづけてきた木下勢の軍兵は、体力が回復していなかった。 極度の疲労にうちひしがれ、歯く息ばかり騒がしい男たちは、二の腕やふくらはぎを木彫りのようにこわばれせ、頭痛と吐き気に悩まされている。 彼らの耳底には、乱戦のなかで血を撒き、あhらわたをひきずって死んでいった仲間の最後の絶叫が、残響の尾をひいていた。 合戦で死ぬ者は、いまわのきわにおそろしい叫喚を発するものであった。 「いままでは、山火事にたすけられたが、退陣(ひきじん)となれば邪魔だ出や」 小六が藤吉郎と苦笑いを交わす。 まもなく後退してゆく街道筋が、火明かりで真昼のように照らしだされている。 敵勢の様子をうかがっていた稲田大八郎が、ふりかえって告げた。 「御大将、右手(めて)の辺りの火勢が弱まってきたでやあ。退くはいまだで」 藤吉郎は総勢を呼び集め、下知した。 「加屋場口より先は深山だで。足さえもつなら、無事に退けるでや。後陣(ごじん)は若手の侍どもがしばしの間は支えるで、手負いより先に退くがよからあず。やれ走れ、いまだでや」 陣所に密集していた黒影の群れが、水のたぎり落ちるように斜面を踏みとどろかせて駆けおり、街道へのびてゆく。 稲田大八郎、同大炊介、長江半之丞、蜂須賀又十郎らの屈強な若侍が、無疵の足軽、荒子とともに陣所に残り、押し寄せる敵を待ちうけた。 小六、将右衛門も若手に負けてはおられぬと、踏みとどまった。 眼下の草原から朝倉勢がひとしきり鉄砲を撃ちかけてきたあと、急調子の攻め太鼓が闇の底で鳴り渡った。小六たちは槍を構え、腰を落として敵を待ちうけた。 五月一日の夕刻、木下藤吉郎は六百余人に減った同勢をひきつれ、山城国途中峠を越え、大原、八瀬の谷あい到着した。 (中略) 五月七日、藤吉郎は二条城大広間で、譜代の歴々衆列席のなかで、信長の膝もとに呼び出され、感状を賜った。 今度於敦賀表退口(のきぐち)殿陣 無比類働殊勝なり、追而可有沙汰之状仍(よって)如件 五月七日 信長 御判 木下藤吉郎どの 津本陽著『下天は夢か』日本経済新聞社刊P265〜277より |