一万数千年も続いた縄文時代は紀元前2,3世紀ごろ終わりをつげた。新しく、稲作と鉄器を使用する弥生時代が始まる。稲作の普及はより安定的な食糧を得ることになり、金属器は飛躍的に生産性を向上させた。しかし、余剰生産は「格差」を生み、水利と土地の確保、拡大は他の集落との「争い」を生んだ時代でもあった。
 敦賀の弥生時代 吉河(よしこ)遺跡
  吉河遺跡は敦賀市吉河地区の南西、標高8mの木の芽川が形成した扇状地にある。国道8号線倍バス工事によって緊急発掘調査が昭和56年(1981)行われた。昭和60年まで6次にわたって行われ、調査面積一万三千平方メートルに及んだ。敦賀市民の応援を得て緊急発掘調査が進められ、全国屈指の弥生遺跡として評価を得た。農耕集落の成立を物語る遺跡として「敦賀の登呂」の様相を見せている。しかし、大半の遺構は工事の再開によって埋没してしまった。  
集落外に大規模な墓域を定め、方形周溝墓が築かれていて、集落跡と墓域があわせて発掘された代表的弥生時代の遺跡といえる。また、集落内の住居跡の規模に差があること、方形周溝墓と土壙墓が併存すること、これらの諸点から集落内に階層分化の進んだことを示している。
吉河遺跡全景

福井県教育委員会提供
 

発掘中の方形周溝墓
(舟形木棺の痕跡が見える)
名古屋市・平手町遺跡

土壙墓
方形周溝墓は特別であり、普通の人々は地面に掘った土坑に埋葬された。
農耕集落の成立 
吉河遺跡は竪穴式住居跡、掘立柱建物群、墓道、方形周溝墓、土壙墓、村の境界を示す大溝(河道)と言った弥生時代の農耕集落を示している。

農耕集落
出土遺物
出土遺物は多岐にわたり、かつ物量は膨大である。土器、石器、金属製品、ガラス製品、土製品、木製品、など。

出土遺物
稲 作
稲作のはじまりと地域小国家の形成
現在、稲作の起源は数ま年前の中国長江流域の湖南省周辺地域とされている。日本への伝来は、3ルートが考えられる。朝鮮半島南部を経由した説、中国大陸からの直接ルート、台湾、沖縄など南方諸島を経由した説である。稲作の普及は九州から西日本、東北地方へ普及した。稲作の普及は食料の安定をもたらし、ついで水田の拡大は集落間の争いを発生させた。集落内の貧富の差と集落の併合、地域のおける共同体が生まれた。そして、小国群の形成に進み、弥生時代後期には地域連合国家の出現を見るに至る。
日本列島への普及
朝鮮半島から北九州、中国から直接、南方諸島を経て南九州に渡来した稲作は西日本地方、東国地方へ普及していった。しかし、続縄文の状態であった東北地方への普及は後の時代になる。

竪穴式住居と水田

矢板で護岸を施した溝(白線部分)
青谷上寺地遺跡パンフレットより作成。

集落の作業風景
水田を囲む杉板(矢板)が見える

田植えの風景
 登呂博物館壁画・復原建物より 
   
  東北地方の 稲作遺跡(北限)  
垂柳史跡(たれやなぎいせき)は、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の遺跡。それまで東北地方北部における弥生時代の水田稲作は否定的であったが、稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなった。また、この遺跡から遺跡から北西20キロ地点に位置する砂沢遺跡においても弥生前期末の水田跡と水田稲作と関係する遠賀川式土器が確認されており、稲作文化の北限と位置づけられている。   砂沢遺跡(すなざわいせき)は、青森県弘前市に所在する弥生時代前期の本州最北端最古の水田跡遺跡。岩木山の北東麓に延びた丘陵の突端部、岩木川の左岸に位置し、1950年代の発掘で、縄文晩期終末の貴重な遺跡として認められ、砂沢式土器の名をうんだ。しかし、1984年(昭和59)から3カ年計画で発掘調査で、思いも寄らなかった弥生時代前期の水田遺構が発見された。
鉄 器
  鉄器は、紀元前15世紀ごろ中国において青銅器時代を迎え、紀元前4世紀ごろ鉄器時代となる。日本へは、弥生時代に朝鮮半島を経由して伝播した。先に伝来した青銅器は剣など武器に使われたが、その神秘的な青銅の色から、銅鐸などに使われた。鉄器の使用によって水田耕作の生産性は飛躍的に高まり、武器としてもその性能でも同様だあった。青銅器は武器として利用されたが、格段に強固な鉄にとって代わり、銅鐸や銅鏡として重用されていった。弥生前期には鉄器より木器がほとんどだった。鉄器の保持量は取りも直さず集落・共同体の優劣を決定づけた。  

荒神谷史跡展示より

青銅器
 

荒神谷史跡銅矛・銅鐸出土状況
荒神谷史跡
島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡。国の史跡に指定 1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
  戦いの痕跡 青谷上寺地遺跡   

人骨はバラバラとなり、遺棄されたような状態で見つかった。中には骨まで達する深いキズを負ったものもあり、老若男女100体以上もあった。

銅製の矢じりが突き刺さった人骨

朱色に塗られた楯
鳥取県教育委員会発行「青谷上寺地遺跡」パンフレットより転載 
妻木晩田(むきばんだ)遺跡
  妻木晩田遺跡は国内最大級の弥生集落遺跡。遺跡の面積は166ヘクタール(約東京ドーム35個分)にもなり、これは発掘当時国内最大級とされた吉野ヶ里遺跡(発掘時32ヘクタール、現在は調査が進み、約2倍の面積)の2.5倍にもおよぶ。出雲地域に強力な地域連合国家が存在していたことを推定させる。弥生時代中期終わり頃から古墳時代前期初頭にわたって営まれている。倭国大乱の影響とされる高地性集落であるが、大規模で長期にわたる例は少ない。  

全体図

高台より復元竪穴住居群を望む
洞ノ原地区西側丘陵と弓ヶ浜半島
鉄器は鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃等、弥生時代のみで197点が出土、大陸からのものも確認されている。

四隅突出墳丘墓

泥を塗りつけた掘立住居と高床建物

むきばんだ史跡公園展示館

道案内板

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