若狭三方縄文博物館内壁画より作成

一万数千年に及ぶ日本の縄文時代、採集・狩猟社会におけるその持続性は世界に類を見ない。その持続性は日本列島の位置、自然環境に因るところが多い。また、この縄文時代に形成された地域の気候帯、多様な民族(文化)の日本列島への流入は、後に続く弥生時代以降の日本の歴史に大きく影響を及ぼす。
循環と共生
  土器と火を使うことによって縄文人は、想像以上に安定的な食生活を得ていた。食料は狩猟と採集であるが、栗の木など植生、落とし穴などの狩猟技術などで安定的であった。それは定住を可能にし、集落が営まれた。集落の人々は自然の「循環」とともに「共生」していた。  

煮炊き

殻むきとすり潰し

石器原材を丸木舟で運ぶ
木々と石の道具
家 族

木器を削る

石匙・石槍・石鏃
縄文時代前期、鳥浜の人達は木の特性を熟知し、伐採用の石斧柄にはユズリハ属、丸木船には杉、櫂にはヤマグワといったように道具の用材を使いわけました。 また、容器製作では樹種選択から木取り、漆塗装まで一貫した製作体系があり、一個の品物を異なる集落の人々が分業して作り上げるシステムもあったようです。(図表説明文より)
また、切る、削る、割るなどの為に強く営利な石器のために黒曜石、サヌカイト(讃岐石)、輝石安山岩などを各地から手に入れていた。
石器原材の伝搬
 
  四季の営み  

芋掘り

縄をなう
四季の移り変わりの中で、営々と続く循環に適応して縄文人は海山で採集と狩猟を繰り返した。生存以上の余剰生産物は殆ど無く、分配の争いもなく、共生していたと思われる。生産性の向上は共生する人々への豊かさに貢献される。
丸木舟造り

落とし穴猟
 こころの文化 
  縄文人も豊かな自然の恵みと、人と同等の動物に畏敬の念を持ち(森羅万象・万物に生命・精霊が宿る=アニミズム)、災いが起こらないように祈った。また、子孫の繁栄を願った。それは生と死と祈りの心情である。定住生活の進展による集団の結束のために、祈りと祭りが始まる。  
土 偶 埋 葬 土 面
土偶は妊娠した女性を表すことから、創造の象徴とも推定される。やがて、集団、家族。個人の祭祀に利用されたものであった。 縄文人の人骨から推定すると15歳からの平均寿命は16年ほどである。また、乳幼児の死はその数倍たされる。定住生活が発展するにつれ、埋葬は集団で、一か所に行われ墓地が集落内に置かれた。墓地は残された者が死者の血統、財産、名誉を引継ぎ、先祖伝来の土地だあることの主張でもあった。  集落あるいは集落間の友好や団結を保つために余剰収穫を祭祀を行った。祭祀は集落の平等性を保つ行事でもあったその時に使われたド面である。

キウス周堤墓(北海層千歳市)


千歳市埋蔵文化財センター展示
敦賀の縄文遺跡
  最終氷期の最寒冷期後、約一万九千年前から海面上昇が始まった。(縄文海進)その後、沖積層の推積が追いつき、縄文前期(紀元前五千年前)頃には、海面は現在より2~3m高かったと思われている。敦賀では、地域によって差異はあったと思われるが、現在の南部の扇状地域以外平野部まで海底であったと推測される。  

敦賀の地形

敦賀の縄文

集落調査例と主な古墳群
鳥浜貝塚 
  福井県の南西部に三方五湖がある。五湖のうち、もっとも内陸部にある三方湖のほとりでは、縄文時代創期~前期(1万3000年前~5500年前)の低湿地遺跡である鳥浜貝塚が発掘された。遺跡は1962年(昭和37年)初めて調査に着手され、1986年(昭和61年)まで計10次にわたった。木製品、漆製品、縄、編み物、動植物遺体などきわめて良好に保存されていた。それは、従来の縄文のイメージを一変させるものだった。まさに「鳥浜貝塚は縄文タイムカプセル」である。  
 若狭三方縄文博物館展示 手作業




漆塗り器復元

ユリ遺跡3号丸木舟


 
土器の径(みち)
 
画像
 若狭三方縄文博物館展示
及び常設展示図録より作成
 若狭三方縄文博物館公式ホームページ
三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期から中期末の大規模集落である。縄文時代の認識を大きく変えた大発見であった。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。2000年に国の特別史跡に指定。
 
集落
標高約20mにあり、約40haの範囲に広がっている。住居・捨て場・大型掘立柱建物・貯蔵穴・土杭墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫はもちろん、大型竪穴住居が10棟以上、トータル約780棟に及ぶ。
栽培
遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、栽培されたものであることが判明した。多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さなに一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物も出土しているl。三内丸山の縄文人たちは、自然の恵みに依存する採集活動だけではなく、集落の周辺に堅果類の樹木を多数広範に栽培し、豊かな定住生活をを営んでいた。
六本柱建物
柱の大きさで評価されることも多いが、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることである。それは、当時すでに測量の技術が存在していたことを示すものであり、当時としては高度な技術を持っていたことを示すものである。さらに、建造物を建てるには多くの労働力を必要とし、集落居住者の団結力と彼らを指導できる指導者がいたことも推測できる。また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されている。
交易
黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。翡翠の産出は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている。
  復元された建物群   



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