昭和、はじめの20年はまさに暗黒の時代であり、動乱の時代でもあった。それは恐慌に始まり、対内外の不安が強まり、血なまぐさい弾圧、暗殺、陰謀、クーデターが繰り返され、ファッシズムが戦争・惨禍をもたらした。 |
闘争の衰退 | |||
昭和初頭から増加した労働争議・小作争議は戦時体制が進むにつれ、過酷な弾圧、農村が本来的に持つ保守性によって衰退していった。特に農村においては重税と借金の利子払いに小作農は生存の危機までの困窮を極めた。そもそも、思想・意識において明治維新後目指した近代国家は王政復古(天皇君主制)を内在し、初等教育から日本人に植え込まれた。この一般庶民の意識構造が闘争の進化を鈍くさせた。増して、戦時体制とともに偏狭なナショナリズムをも醸成していった。 |
満蒙開拓団 | ||||
満蒙開拓団募集広告 満蒙開拓団青少年義勇軍壮行式 昭和13年 金ヶ崎桟橋 |
昭和6年に起きた満州事変から昭和20年の日本の太平洋戦争敗戦時にまで、旧「満州国」(中国東北部)・内モンゴル地区に、国策として送り込まれた入植者約27万人.。敦賀港からも多く送り出された。 | 満蒙開拓団の悲劇 1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した。ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった。男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した。主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である。敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める。
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満蒙開拓団青少年義勇軍さいべりあ号にて壮途につく。 |
恐 慌と思想統制 |
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ニューヨーク・ウォール街の群衆 |
第一次世界大戦は日本に未曾有の戦争特需をもたらした、日本は世界の五大国に列する。しかし、戦争特需の反動で戦後恐慌に陥って日本資本主義の未熟・脆弱さ(国際競争力)を露呈していく。さらに、追い打ちをかけるように1923年(大正12年)9月1日関東大震災がおこった。その後に振り出された戦災手形を政府は金融緩和策などで救済しようとしたが、経営不振による便乗手形もあり、それらの手形は不良債権化し、金融恐慌となった。また、世界経済も第一次大戦後のインフレから緊縮財政と経済再生を目指したが、1929年ニューヨークウォール街から始まった世界大恐慌「暗黒の木曜日(Black
Thursday)」はたちまち各国に波及した。日本にも致命的な打撃を与えた。 |
1927年(昭和2年)3月23日 当時の取り付け騒ぎ |
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治安維持法 |
治安維持法1925年に大正14年4月22日法律第46号として制定され、1941年に全部改正された。共産主義革命運動の激化を懸念したものといわれているが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントが起訴された。当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。この治安維持法は為政者によって厳罰化、検挙対象の拡大、刑事手続きの変更(改悪)などがなされた。 | |||
特別高等警察(特高) | |||
大本教弾圧 警察によって破壊される大本教の神殿 |
特別高等警察は共産主義者や社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まる政治警察である。内務省警保局保安課を総元締めとして、三・一五事件をうけ、1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県設けられ、1933年には小林多喜二に過酷な尋問(拷問)を行なって死亡させた。後に日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。内偵活動によって「鵜の目鷹の目」体制がしかれ、、「銭湯の冗談も筒抜けになる」ようなことも逸話になった。 | 小林多喜二への拷問母親は多喜二の身体に抱きすがった。「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか! |
3.15事件の検挙者 |