昭和、はじめの20年はまさに暗黒の時代であり、動乱の時代でもあった。それは恐慌に始まり、対内外の不安が強まり、血なまぐさい弾圧、暗殺、陰謀、クーデターが繰り返され、ファッシズムが戦争・惨禍をもたらした。
恐慌と敦賀
  昭和4年(1929)ニューヨークに端を発した世界恐慌の余波を受け、日本も昭和恐慌に陥った。敦賀も明治・大正期の比較的安定した発展は望めなくなっていた。また、慢性的不況によって労働者や農民たちの生活は、根底から揺さぶられ破滅の淵にあった。。底辺労働者や農村での争議がそれを物語っていた。
全国争議の増加 沓見小作争議  底辺労働者の争議 敦賀キネマ争議

『日本の歴史』ファッシズムへの道
大内 力著中央公論社刊より
]昭和恐慌によって、農村において現金収入の減少、負債の増大が深刻化していた。地主への小作料減免を求めた。他方、松原村信用組合の破綻によって、組合員の無限責任による負債返済が生じ、争議の一因になった。昭和5年争議が発生した。小作人組合は全国農民組合(全農)に加入し、地主への要求貫徹を目指した。 敦賀での最初の労働争議は劣悪な労働環境で働く敦賀港仲仕の貨物積み下ろし賃金増額要求であった。(朝鮮人労働者も含まれる。)1930年には7月創立の敦賀労働組合(組合員275人)のほか敦賀建築労働組合(同120人)、敦賀映画従業員組合、敦賀木材労働組合、敦賀自由労働組合などがあった。 昭和6年10月、敦賀キネマの従業員20名が館主の解雇宣告に対してストライキに入り、館主側は休館して対抗した。争議は長引き、福井県全県の映画従業員巻き込め、全国労農大衆党の支援を受け闘争を続けた。

信露貴彦神社が鎮座する沓見集落

博大正~昭和敦賀港
恐慌下の農村 更生施策
昭和6年の労働争議
  闘争の衰退   
  昭和初頭から増加した労働争議・小作争議は戦時体制が進むにつれ、過酷な弾圧、農村が本来的に持つ保守性によって衰退していった。特に農村においては重税と借金の利子払いに小作農は生存の危機までの困窮を極めた。そもそも、思想・意識において明治維新後目指した近代国家は王政復古(天皇君主制)を内在し、初等教育から日本人に植え込まれた。この一般庶民の意識構造が闘争の進化を鈍くさせた。増して、戦時体制とともに偏狭なナショナリズムをも醸成していった。   
戦時体制
  世界大恐慌後、世界経済は各列強のブロック化(保護主義)が進み、ブロックの防衛と他ブロックへの進出へと傾斜していった。日本も植民地の朝鮮、傀儡国「満州国」を包括した円ブロック形成していった。昭和12年(1937)、敦賀は市制誕生の祝賀に喜んでいた。しかし7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして日本と中国の戦争が全面化し、戦時体制の泥沼への道を日本は歩みだした。第二期港湾修築工事を終え近代的な港として敦賀はその拠点港となった。  

満蒙開拓団募集広告
昭和6年に起きた満州事変から昭和20年の日本の太平洋戦争敗戦時にまで、旧「満州国」(中国東北部)・内モンゴル地区に、国策として送り込まれた入植者(約27万人.。敦賀港からも多く送り出された。
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市 昭和12年頃の敦賀
在郷軍人会
博 防空訓練
 軍人町長 加藤惣次郎
博 駅前通りを行進する軍隊 
在郷軍人会は本来戦時に備えての軍人的資質、涵養を目的にするものだが、満州事変が勃発すると敏感に反応し、北尋常小学校などで、市民を取り込み、戦意を高揚した。  前敦賀旅団長、陸軍少将であった加藤町長は恐慌下の不況にかかわらず、民政党(憲政)の町議員の反対を無視して、積極的な放漫財政を押し進めた。その財源はほとんど町債(町の借金)で賄われた。この極端な放漫財政に対する町民の不満強くなっていった。このような強引な町政は軍事体制の影の部分であった。このしわ寄せは不況下で苦しむ町民、とりわけ無産者大衆に犠牲を強いるものであった。 
f敦賀在郷軍人会
  軍 隊  

博 敦賀憲兵隊分署(現 白銀町)

軍事教練風景

博 陸軍第19歩兵連隊正門(敦賀市金山)

博 出兵風景
恐 慌と思想統制

ニューヨーク・ウォール街の群衆
第一次世界大戦は日本に未曾有の戦争特需をもたらした、日本は世界の五大国に列する。しかし、戦争特需の反動で戦後恐慌に陥って日本資本主義の未熟・脆弱さ(国際競争力)を露呈していく。さらに、追い打ちをかけるように1923年(大正12年)9月1日関東大震災がおこった。その後に振り出された戦災手形を政府は金融緩和策などで救済しようとしたが、経営不振による便乗手形もあり、それらの手形は不良債権化し、金融恐慌となった。また、世界経済も第一次大戦後のインフレから緊縮財政と経済再生を目指したが、1929年ニューヨークウォール街から始まった世界大恐慌「暗黒の木曜日(Black Thursday)」はたちまち各国に波及した。日本にも致命的な打撃を与えた。

 1927年(昭和2年)3月23日
当時の取り付け騒ぎ
  治安維持法  
  治安維持法1925年に大正14年4月22日法律第46号として制定され、1941年に全部改正された。共産主義革命運動の激化を懸念したものといわれているが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントが起訴された。当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。この治安維持法は為政者によって厳罰化、検挙対象の拡大、刑事手続きの変更(改悪)などがなされた。   
  特別高等警察(特高)  

大本教弾圧
警察によって破壊される大本教の神殿
 特別高等警察は共産主義者や社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まる政治警察である。内務省警保局保安課を総元締めとして、三・一五事件をうけ、1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県設けられ、1933年には小林多喜二に過酷な尋問(拷問)を行なって死亡させた。後に日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。内偵活動によって「鵜の目鷹の目」体制がしかれ、、「銭湯の冗談も筒抜けになる」ようなことも逸話になった。 小林多喜二への拷問
母親は多喜二の身体に抱きすがった。「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!

3.15事件の検挙者
治安維持法とテロ等準備罪法案比較
画像提供 博 印 敦賀市立博物館提供 市 印 敦賀市提供

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