約1万年前に更新世(氷河期)が終わり、完新世になると気候は温暖になり、海面が上昇して日本列島が大陸と分離した。そのころから、縄文時代を迎える。縄文・弥生期を通じて日本列島には多様な民賊と文化が流入した。北ツ海(日本海)や川を介して広く地域間の交流が行われていた。
北の海っ道   
  日本海(北の海っ道)では広範に集落間の交易が行われた。湾口に発達した砂州によって外海と切り離されてできた湖。すなわち潟(かた)が日本海側に多く点在し、潟湖が注目されるのは、付近に大規模な遺跡が集中する点にある。その地域最大級の古墳が築かれ、大規模の集落跡が形成されることも少なくない。潟湖間の交流は古代の交流・交易の拠点として発達する・
 

柴山湖
(石川県加賀市)


邑知潟
(石川県羽咋市)


東郷池
(鳥取県東伯郡湯梨浜町)






敦賀(イメージ)
越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真梶貫おろし……わが漕ぎ行けば 丈夫の 手結が浦に……(『万葉集』巻第3 366番) 笠金村
 
 三方五湖
(福井県若狭町)
国土交通省 国土画像情報を基に作成

佐潟(新潟市)


北潟湖
(福井県あわら市・石川県加賀市)

北っ海の伝承・説話
古代北っ海(日本海)で各地域間の交流を教示する神話、説話、共通の痕跡が多くのこっている。、大陸からの文化、技術、人の渡来も教示、想起させる痕跡を見る。
神功皇后の三韓征伐 

神功皇后が出発したとされる常宮神社
三韓征伐、経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されている。仲哀天皇の后で応神天皇の母・神功皇后が行ったとされる新羅出兵を指す。その時の伝説として、神功皇后は気比神宮の下社である常宮神社から北ツ海の沿岸を西に廻り、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会遊ばされ給うた、とある。途中、現在の兵庫県豊岡市気比浜に立ち寄った伝説もある。現在、気比神社が気比地区に鎮座している。敦賀にある氣比社と同様に、伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし神功皇后を配祀する神社である。、この地で兵食を備へたという。
兵庫県豊岡市気比 気比神社
  コシとヤマタノオロチ伝説
素盞嗚尊 画
月岡芳年・画
『古事記』『日本書紀』素盞嗚尊(スサノオノミコト)のヤマタノオロチ退治の神話のなかに、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう、とある。高志(コシ))」の解釈にも諸説あるが、この当時、出雲国は越国(北陸地方)と交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現・島根県安来市)の地名説話で「越の八口」の平定の記載があるため、出雲と越の勢力争いをヤマタノオロチ神話の原型や土台とする説がある。高志=越とみるには、旧越国である福井県などに、「高志(野)」、「九頭竜(くずりゅう)」などの名称や地名があること(例:高志高校、九頭竜川など)や、四隅突出型墳丘墓のように、過去に文化的・権力的な関連があったとされることなどが挙げられる

須佐神社
(島根県出雲市佐田町須佐730)
日本海文化圏の痕跡分布 
  古代北っ海(日本海)の交流は日本海各地の勢力間で行われ、日本海独特の縄文・弥生の痕跡が見られる。   
  四隅突出墳丘墓   

四隅突出型墳丘墓のイメージ
弥生時代後期、方形周溝墓・台状墳の一種である四隅突出型墳丘墓は、鳥取県三次から始まり、山陰、若狭、越前など日本海側で広く発掘されており、各地の首長の墳墓と推定される。ヤマト政権の影響を受ける前方後円墳以前のものであり、北ツ海の交流はヤマト政権に取り込まれる以前より、、地元豪族間の交流が盛んだったことがうかがえる。福井県では小羽山古墳群(福井市清水町)のなかで北陸では最古の四隅突出型墳丘墓が発見されている。敦賀の吉河遺跡にも方形周溝墳・土墳墓が併存している。
小羽山古墳30墳(福井市清水町)

妻木晩田(むきばんだ)遺跡
鳥取県西伯郡大山町・他

西谷二号墳案内板
復元された四隅突出型墳丘墓
西谷(にしだに)古墳群(島根県出雲市大津町字西谷)
  巨木文化   
島根県の出雲大社境内から、直径3メートル近い巨大な柱根が出土した。以前からあった文献(金輪御造営差図)通りのものが出てきた。。出雲大社の柱は最大1メートル30センチクラスの柱を3本併せて、鉄の輪で縛って1本としてある。これで高さ48メートル(16丈)の神殿を支えたといわれるが、途中で2本か3本継ぎながら長大な柱を構成した。金沢のチカモリ遺跡で出土した直径92センチのクリ材縄文時代の遺跡である青森県の三内丸山遺跡からも1メートル近い柱穴が発掘されている。その以前からも富山や新潟にも同様の巨木文化の存在が指摘されていた。北陸の巨木文化研究は点から線につながり、日本海全域に拡大していったのである。巨木文化の分布は、積雪が多い日本海側の建設様式でもあった。

出雲大社 発掘時の岩根御柱約3.6m
案内板より

チカモリ巨木遺跡
(石川県金沢市新保本町)
 

青森県青森市大字三内字丸山にあり、縄文時代前期から中期の大規模集落跡である。遺跡には住居群、倉庫群と三層の巨木の掘立柱建物が再現されている。この遺跡は縄文文化が従来のものより進んだものであることを示している。画期的な発見である。

桜町遺跡
(富山県小矢部市桜町)


真脇遺跡
(石川県鳳珠郡能登町字真脇)
  気比社の分布  
  気比社はヤマト政権確立後、北ツ海の航海神としてその地位を急速に高めていった。その神威は山陰から東北まで及ぶようになった。それは。それ以前の北ツ海の交流の中で、、ヤマトに近い敦賀の勢威を示す。  
   

兵庫県豊岡市気比 気比神社 
 
気比神社(福井市三尾野町)
 

新潟県佐渡市椿尾 気比神社

山形県鶴岡市三瀬 三瀬気比神社
敦賀にある氣比神宮と同様に、伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし神功皇后を配祀する神社である。神功皇后の三韓征伐の折、この地で兵食を備へたという。豊岡市気比地区の田園の中にぽつりと鎮座していた。  気比神社のある福井市三尾野町は 継体大王の母・振媛の祖先である豪族三尾氏を地名として残している。気比神社の入り口には「請われ書石碑」が設置されている。。福井市内では気比神社は4社を数え、県内では気比神宮をはじめ10社にのぼる。   越前敦賀気比神宮領が各地に十二町歩ほどあり、その三町歩が佐渡にあった。佐渡には羽茂上山田、椿尾、長畝、馬首に気比神社がある。 三瀬気比神社の創建は霊亀2年(716)に気比神宮の分霊を勧請したと伝えられている。
  気比神社一覧   

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