江戸期、「北国の都」と言わしめた港町敦賀の文芸は、武士層ではなく有力町衆や寺社の僧侶・神官によって支えられた。また、物資だけでなく、人文の交流の地であったことは敦賀の立地から当然でもある。
芭蕉敦賀を詠む
  松尾芭蕉、寛永21年(1644)~元禄7年(1694)は、江戸時代前期の俳諧師。俳諧の芸術的完成車であり、芭風と呼ばれる句風確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる。元禄2年(1689)8月14日夕刻、松芭蕉は「奥の細道の旅」の途中、敦賀を訪れる。気比の松原で月見することが最大の目的だったと伝えられる。唐人橋の出雲屋に宿泊。

気比の松原

戦前の色ケ浜
敦賀市立博物館提供

句碑・鐘塚
金前寺(金ヶ崎町)境内

芭蕉逗留出雲屋跡(相生町)
気比神宮に参詣した芭蕉は、 その夜月がこうこうと照りわたっていたことから「月清し 遊行の持てる 砂の上」と詠み、更に誘われるままに気比の松原に足を延ばし一句。 8月16日幸い天気に恵まれ、潮時を待って芭蕉は、船で敦賀湾の色浜に向かった。西行法師も訪れた当浦で五郎右衛門・洞哉等と催した句会は芭蕉の敦賀での思い出をより深めた。「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」も詠む。 南北朝騒乱の折,敗れた南朝軍が陣鐘を海に沈めた。陣鐘は逆さに沈み、龍頭(梁に吊るすために釣鐘の頭部に設けた竜の頭の形にしたもの)が海底の泥に埋まって、引き上げることができなかった。この故事に一句。 芭蕉は、中秋の名月の前日8月14日当時唐人橋町の出雲屋に投宿。主人弥一郎の案内で、月明かりの中、気比社に参詣した。しかし翌日は雨、天候の急変に日和の定めなきを詠む。
  芭 蕉   
  敦賀の俳諧  
  芭蕉が敦賀を訪れる以前から、敦賀には俳諧に長じた人々がいた。その筆頭というべき俳諧人は本勝寺13世住職日能上人であろう。松永貞徳に学び、寛永19年に刊行された『鷹筑波』の巻頭を飾った。「春たつと いふばかりにや かさり縄」また、日能の影響を受けた乾貞怒や句集『崑山集』に1,2名『玉海州』には6名の敦賀の俳人の名がある。。  
 気比社と町衆と社家
  気比神宮の例祭は、大宝2年(702)仲哀天皇と神功皇后が合祀されたとする8月4日を中心に14日間の「気比の長祭り」である。祭礼の季節や形式から京の祇園祭の影響を強くうけており、夏祭りによくある「御霊信仰」とともに発展したものと思える。祭礼の総責任者を6月の牛腸際で牛腸番として町衆の中から選ぶ。牛腸番となった町では町内の富裕、人望の者を選び、祭礼の山車順番など準備にかかる。選ばれた家は家の新築、改装をして贅を尽くした饗応を行う。一世一代の誉れでもあった。祭礼には藩主、奉行なども見物するが、その桟敷(本勝寺)の準備・警護も町衆が行う。山車は各町から盛時50台も出され、町中を練り歩いた。気比神宮の祭礼はまさに敦賀町衆のエネルギーによって挙行された。  
  気比祭   
気比社を語る社家日誌   

大祝記録 嶋憲實 
気比神宮蔵
 嶋家は明治まで気比社の社家、気比の社家八家の内の一家であり、角鹿姓は島家のみである。角鹿(島)教實(しまのりざね)戦国武将。元亀元年に天筒山の戦いで戦死。角鹿(島)計富(しまかずとみ)『気比俗談』の著者。氣比神社大祝。島房男(しまふさお)医師。明治以降に島家は官制下で神職をやめ、現在、角鹿国造家を継承しているのは島家の分家である旧萬性院家(角鹿家)が奉仕する福井県丹生郡越前町気比庄に鎮座する氣比神社の社家であり、唯一同族が社家として残っている。角鹿尚計(つのがなおかづ)氣比庄・氣比神社宮司・福井市立郷土歴史博物館長・筆名・足立尚計
諸社遷宮之記 河端親明 気比神宮蔵 
   気比社を支えた勧化帳   
 
気比宮勧化帳
気比社の大きな行事、建物の修復などに町衆の寄進が行われた。『気比社権化帳』には有力町衆だけでなく、三十数町から多くの老若男女の寄進が列記されている。かつては敦賀に居住した人々の名もあり、町挙げて気比社を支えた息吹を見る。
  敦賀市立博物館刊 『気比さんとつるが町衆』より   
諸文芸
   天和二年に成立した「遠目鏡」は、当時の敦賀町の様子を簡潔に記録したものであるが、そのなかに「芸者付」として文人・学者の名があげられている。儒学者として内田長栄、歌学者として角鹿(島)計富・打它貞能、詩作者として今浜村の清養、連歌師として川口善次、俳諧師として三田村正信・田中秋月、能書として野沢宗與などである。以上『福井県史』敦賀の文人・学者より画人として橋本長兵衛、学者としては気比社の社家平松周家、河端家からも排出している。  
橋本長兵衛  気比社記 

二代目橋本長兵衛鷹 一幅
絵 師
 
筆写本『気比宮記』宝暦13年(1763)平松周家編
敦賀市指定文化財
敦賀市立博物館提供
打它一族と文芸 敦賀の地誌

打它家墓地(永巌寺墓地隣接)
打侘家は、江戸初期の敦賀の豪商であり、福井藩松平氏、小浜藩京極・酒井氏より知行を得、敦賀代官の地位にあった。その初代宗貞の子公軌は、京都で大名貸しを営むかたわら、歌人である木下長嘯子(勝俊)を後援し、その歌集『挙白集』の刊行を助け、また『古今類句』の編纂を手掛けた。さらに能書家でもあり、藤原惺窩の『惺窩文集』一〇巻のために筆をふるっている。『敦賀市史』通史編上巻

打它家

鶴賀市立博物館提供 
江戸期、小浜藩であった敦賀にもいくつかの地誌が成立していた。「寛文雑記」は、敦賀代官打它伊兵衛が職務にかかわる事項を記録したものであり、そのなかには地誌的な内容を多く含んでいる。「指掌録」は、敦賀町奉行であったものたちによって書き継がれたものであり近世敦賀の様相を知るうえで欠かせない記録である。また、天和二年成立の「遠目鏡」がある。敦賀を訪れる旅人への敦賀案内として編まれたものである
地 誌 
  幸若舞と新内節   

幸若遺跡庭園(三島町2)
幸若舞

鶴賀若狭掾顕彰碑(神楽町1)
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