江戸期、「北国の都」と言わしめた港町敦賀の文芸は、武士層ではなく有力町衆や寺社の僧侶・神官によって支えられた。また、物資だけでなく、人文の交流の地であったことは敦賀の立地から当然でもある。 |
敦賀の俳諧 | |||
芭蕉が敦賀を訪れる以前から、敦賀には俳諧に長じた人々がいた。その筆頭というべき俳諧人は本勝寺13世住職日能上人であろう。松永貞徳に学び、寛永19年に刊行された『鷹筑波』の巻頭を飾った。「春たつと いふばかりにや かさり縄」また、日能の影響を受けた乾貞怒や句集『崑山集』に1,2名『玉海州』には6名の敦賀の俳人の名がある。。 |
諸文芸 | |||
天和二年に成立した「遠目鏡」は、当時の敦賀町の様子を簡潔に記録したものであるが、そのなかに「芸者付」として文人・学者の名があげられている。儒学者として内田長栄、歌学者として角鹿(島)計富・打它貞能、詩作者として今浜村の清養、連歌師として川口善次、俳諧師として三田村正信・田中秋月、能書として野沢宗與などである。以上『福井県史』敦賀の文人・学者より画人として橋本長兵衛、学者としては気比社の社家平松周家、河端家からも排出している。 |