※画像は屏風図の右隻、マウスポインタが上にきたときの画像は左隻
敦賀市立博物館蔵
敦賀城主・大谷刑部少輔吉継、その実像に迫ろうとしたとき、吉継に関する確実な史料の少なさに躊躇されるであろう。忠臣蔵のように、後世の伝記もの等からの類推部分が多い。ともあれ、現代、創作されたものを含めて人気の高い戦国武将の一人でもある。関ケ原合戦で倒れるまでの11年間の敦賀での治世であった。 |
大谷吉継プロフィール | ||||
大谷吉継の実像は未詳の部分が多い。後世、敗戦必至と思われる関ヶ原の戦いに際し、石田三成に与して散った吉継は義将とも、知将とも語られている。出自についても定説がない。永禄元年(1558年)に近江国(滋賀県)で生まれたとする説が有力であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある。 | ||||
出 自・婚姻関係 | ||||
近江国小谷説 滋賀県長浜市余呉町小谷の集落に八幡神社が鎮座している。社伝によると、文治年間(1185~90)大谷十郎行吉と称する武士が当村に来住し、八幡大神を勧請して御供田を寄進した。収穫した米を神饌としたので、その地を御田谷(みたたに)と称した。慶長年間(1698~1615)大田谷と書きかえた。この地を大谷村とも称していたが、のちに小谷村と改めそのまま「おおたに」と呼称している。伊香郡神社誌 |
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大伴宗麟家臣説. 父が病気療養のために一時期、大友氏の家臣になっていた時に生まれたという説、また、豊後臼杵城主大谷盛冶の子とも伝えられる説などがあるが、当時の大友家中に大谷氏は存在しない。 東殿の子説・坊官頼亮説 豊臣秀吉の正室ねねの方の侍女東殿の子説は文献なども残り、信ぴょう性が持てる。また、華頂要略の坊官大谷系図に吉継の名があることから、青蓮院門跡坊官大谷泰珍の子説もある。 近江六角氏家臣説 在原行平を遠祖とし、行康のとき近江国坂田郡司となり、以後、その子孫が近江で繁栄することとなった。行康六代の孫行綱は、朝妻に住み朝妻氏を称し、その子行吉は朝妻から大谷十郎を名乗った。これが大谷氏のはじまりとされる。吉房の時、六角義賢に仕えたといわれ、その子が吉継で、義隆ときされることが多い。 |
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小谷集落 八幡神社 |
近江国テクノラート武将 | |||
長浜城 |
京・大坂など畿内に隣接し、琵琶湖の水運を持つ近江の国は中世・近世において近江商人など輩出する経済的先進性と損得勘定という現実性を持つ国であった。織田信長は、天正元年(1573年)、羽柴秀吉を浅井氏の旧領北近江三郡に封じた。時代はより大きな軍団を機動させる兵站の充実と、それを可能にさせる能吏な人材を必要とした。計数感覚、内政手腕を得意とする人材をこの近江の地で秀吉は多く発掘した。石田三成などの有望な若者を積極的に登用しだす。大谷吉継も近江の人材として登用された、とする説が有力である。大谷吉継は秀吉の馬廻り衆として播磨国攻略に参陣、三成との忍城・館林城攻略などの戦績がある。しかし九州征伐時の御扶持方渡奉行、朝鮮出兵の奉行として参陣にみるように能吏の側面を見ることができる。 | 石田三成が修行した観音寺 (滋賀県米原市朝日) |
吉継居城 敦賀城 | ||||
敦賀城礎石(真願寺境内) 敦賀市結城町 |
「江戸期町絵図」からの結城町 |
結城町歴史案内碑 |
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敦賀城発掘調査 | ||||
平成21年11月より同22年3月、敦賀城があったとされている敦賀市結城町市立西小学校の建て替えに際して、発掘調査が行なわれた。天主閣そのものを確定する礎石、埋没物は見つからなかったが、敦賀城の何らかの施設もしくは同時代の建物が確認された。また、埋没遺跡は良好な状態であり、周辺地域の発掘で新たな発見の可能性が確実になった。 |
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出土物と年代 14末~15中葉 越前焼すり鉢 16世紀中葉~末 天目茶碗、輪花皿 17世紀 灯明皿、染付磁器、軒丸瓦など 地層 湿地帯層 室町時代以前 西の入江につながる湿地帯 炭・瓦混在層 戦国期 敦賀城築城により整地された。 |
結城町 大谷吉継によって敦賀の町割りが行なわれ、この川西地区に行政の中心ゾーンがおかれた。敦賀城、江戸期は奉行所、お茶屋(小浜藩主の滞在施設)、戦前までは裁判所が置かれた。また、結城町の町名由来は、関ヶ原後越前北庄67万石に封ぜられた結城秀康による。 |
関ケ原の戦い・吉継の決断 | |||
慶長5年(1600)関ケ原の戦いが勃発した。豊臣政権の成立に軍事面で寄与した「武断派」と、内政・経済兵站(へいたん)など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」の豊臣家中の対立抗争であったが、実質的には徳川政権成立を決定づける天下分け目の戦いであった。家康に接近していた吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立つ。途中、北陸道から中山道に入る時、石田三成の居城佐和山城に立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとした。しかし、三成から家康に対する挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが。西軍か東軍か、大谷吉継の決断は西軍への与力だった。 |
石田三成 との友情 | 小説に見る | ||
徳川家康よりになっていた吉継を翻意させたのは、石田三成との友情関係だとするのが、通説になっている。三成による秀吉への紹介、豊臣政権下の奉行衆としての事績また三成と同じ近江出身、同年輩ということから仲間意識が育まれ、友情が育まれていったことは、十分に推測できる。 逸 話 天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌ったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。真偽は不詳。 |
大谷吉継・石田三成会談 石田会館展示「石田三成公一代絵巻」 |
阿井景子著『真田幸村の妻』 光文社時代小説文庫 ”賭け!” 竹姫(大谷吉継の娘・真田幸村の妻)は心中で呟き、はっとする。父形部の生き方に繋がるからだった。 長い間竹姫は、父が石田三成に加担したのは、彼等の”友情”だと思い込んできた。・・・・(中略)・・・・・”どうせ長くない生命だ。三成にくれてやろう” 吉継は天に自分の運命を賭けた。吉継を「不吉なり」と吉隆に改め、九分九厘勝目のない戦の一厘の僥倖に賭けたのである。そして幸村も。 |
佐竹申五著『島左近』 PHP文庫 「大谷さま」(島)左近が、その時、小声で、耳元へささやいた。「信州上田の真田さま父子も、われわれに加担して下さると、お約束をいただきました。」「なに真田が・・・」幸村は、娘婿だけに吉継も聞き捨てにはできぬ話だ。・・・(中略)・・・業の深い病魔に犯され、次第に五体をむしばまれてゆくわが身の行く末を考えたとき、「どうせ、死ぬ身なら、徳川の尻尾について、残り少ない余生を保つより、友のために、ここで命を投げ出すべきではあるまいか」その思いも強まってくるのである。・・・(中略)・・・「致し方がない、やはり、あの男(三成)を見捨ててはおけぬ、一緒に死んでやろう。」と、決意をかためた。すでに、勝敗を超越した、その決意だった。 |
武断派と文治派 | |||
豊臣政権下で、武で一国を成した武将たち(武断派)と兵站・内政で地位を得た秀吉側近(文治派)との確執があった。現代風に言い換えるならば、企業の経営者と高級官僚の反目に近似する。豊臣秀吉死後、時代の趨勢は徳川政権へと流れていた。保身は一国の存続を意味する武断派は実利を採り、豊臣政権下で権力を維持できる文治派は政権保持しか選択肢はなかった。文治派と目される大谷吉継の決断も、三成との関係、真田信繁との縁故関係などとともに、西軍に与することは自然の決断であった、と思われる。 |
関ケ原の戦い・推移 | |||
関ヶ原前夜 浅井畷の戦い | |||
大谷吉継は西軍に与することを決した後、一旦敦賀に帰還した。東軍に加わった前田利長を牽制すべく越前・加賀の諸大名を調略していった。丹羽長重、山口宗水など多くの大名を味方にすることに成功した。それに対して、前田利長は丹羽長重の小松城を攻めるも落せず、大聖寺城の山口宗水を攻めた。山口宗水・修弘父子は敗れて自刃した。しかし、吉継は得意の「偽情報」を発して、前田利長を動揺させた。偽情報の内容は、上杉景勝が越後を制して加賀をを背面から攻めること、西軍は伏見城を落して畿内制圧し、大谷吉継をして加賀に攻めること、大谷軍別働隊が海路から金沢城を攻めること、などである。他方、捕虜になっていると利長の妹婿中川光重に「今度大軍を催され、近国を打あびけ、上方発向有之由聞候。是に因り大軍、敦賀表に出張す。云々・・・・・・」と、書かせ、利長に偽情報を送った。これによって利長は軍を金沢城に引いた。 | 浅井畷の戦い古戦場 (石川県小松市大領町) |
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この浅井畷の戦いは、北陸における「関ヶ原合戦」であった。徳川家康に味方した金沢城主・前田利長と、石田三成に味方した小松城主・丹羽長重の戦いだったのだ。 |
関ヶ原の戦い
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、霧も薄くなってきた午前8時ごろ、井伊直政は福島隊の前方へ張り出し、西軍の主力である宇喜多秀家隊に向けて発砲、対する宇喜多隊も直ちに応射。ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。。福島隊や加藤隊、井伊隊などの東軍部隊が宇喜多隊に突撃した。石田三成隊には黒田長政隊、細川忠興隊が、やや遅れて大谷吉継隊には藤堂高虎隊、京極高知隊が、小西行長隊には田中吉政隊、織田有楽斉隊がそれぞれ攻めかかる。三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げる。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万3,000ほどながら、戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、それら諸軍は動かなかった。島津は応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた。小早川秀秋の裏切り 正午過ぎ、小早川秀秋は家康の督促に意を決し松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返った。大谷吉継は、秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。戦局は一変、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。。ここに、関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。西軍敗走 宇喜多隊はしばらくもちこたえるも、3倍以上の東軍勢の前に壊滅。小西隊は早々と敗走し、石田隊も最後まで持ちこたえたが壊滅した。こうしたなか、、いわゆる島津勢の「敵中突破退却戦」が開始される。 | |||
大谷陣地跡碑 |
関ヶ原宮上・敵方藤堂高虎が建てた。 |
吉継墓・陣地跡林道 |