敦賀(津)は中世の前半、気比社が中心的な役割を果たしつつ、流通の要を担った。しかし南北朝、戦国期、その位置的条件から幾たびかの戦場となった。天下統一への状況が高まると、敦賀の町割りが行われ、近世・近代の敦賀町の原型を確立してゆく。 |
織豊時代~戦国時代~南北朝~鎌倉時代~平安(末期)
詳細は年譜表
中世の荘園と集落 | ||||
中世農村支配関係
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日本の荘園は、奈良時代に律令制下で農地増加を図るために墾田私有を認めたことに始まる(初期荘園)。しかし、鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始め、敦賀地域の集落も国衙領と荘園からの管理収奪のなかにあった。室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族(青蓮院門跡)・寺社(気比社・西福寺)・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる。戦国時代には戦国大名(朝倉氏)による一円支配が成立、最終的に羽柴秀吉の全国的な検地(太閤検地)によって荘園は解体した。 | |||
平安中期以降の公領国衙領と荘園が混在していた。 |
大蔵荘 中世大蔵地区に文治2年(1186)には鳥羽天皇の祈願時である京都最勝寺の荘園があった。その荘園を北条時政の代官平勝定と常陸房昌明が横領したと最勝寺から訴えが出され、後白河院から源頼朝に解決の院宣が発せられた。室町期には大蔵荘は公家清閑寺家の家領となっている。その後宮中での抗争から家領は没収される。文政元年(1444)返還の願いを出したが、正親町持季に与えられていた。 莇野(あぞの)保 保は国衙領であるが、室町時代になると、守護やその家来の国人によって支配されることが多かった。莇野保の中に醍醐寺領があったが、応永33年(1426)の年貢算用状によると、82石収納の内、免田分(気比社分)として5石4斗1合など合わせて21石2斗分を差し引いた残りの61石5斗7升1合が醍醐寺分の定米となっている。また、莇野保は足利義教によって青蓮院の子院法輪院領として与えられていた。 |
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民衆の生活 | ||||
商品経済の発達、農業生産の向上、惣結合の強化によって、民衆が連帯して一揆が形成された。いわゆる、土一揆、また、土豪的武士や自治的惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成して行った一向一揆など、支配層に対する民衆の反抗という社会変動が起こった。 |
敦賀町の原型 敦賀の町は、中世を通じて、古代からの東西の入り江が縮小し、東に移動した笙の川(運河?)と児屋の川によって三分(川西、川中、川東)され、近世、近代の町割りの基礎が形成された。 支配体制の変化
『敦賀市史通史編』第4節 中世の敦賀町図より作成
敦賀の町割り 鎌倉時代 守護・地頭の進出
鎌倉時代に入ると、武家の支配者守護・地頭による荘園支配権の簒奪が目立ち始めた。敦賀地域も彼らの国衙領と荘園(集落)からの管理収奪のなかにあった。
室町時代 支配体制の重層化
荘園は存続したが、既存の中央貴族(商連門跡など)・寺社(気比社・西福寺など)と武士・在地領主などと権利・義務が重層的にかつ複雑に形成された。
戦国時代 領国の成立
戦後時代を通じて、戦国大名(朝倉氏)による一円支配すなわち領国支配が確立していく。そして、織田信長・豊臣秀吉による天下統一が進み、秀吉の検地によって荘園は消滅し、豊臣政権の蜂屋頼隆・大谷吉継が城主となり、近世につながる敦賀の町づくりが進められた。
「村と浦の歴史」参照豊臣秀吉による天下統一以前、権門勢家・寺社からの特権や職能団体(座制度)の乱立が常態化していた。また、敦賀の町も東西入り江の間(後に川中と称される)に形成されていた。
一国一城令
天下統一の進展は戦闘用の山城は無用となり、一国一城令により権威と行政用の平城(敦賀城)が庄の川(笙の川)の西方に築城され、行政地域を形成した。
職能別地域の萌芽
流通の全国化および商業の発展はいよいよ畿内と日本海側諸国を中継する敦賀津の重要性は高まった。商業施設や職能民の増加によって町機能の整備が行われた。近世敦賀の原型となる「町割り」がおこなわれた。お砂持ち神事
承安3年(1301)時宗2代目遊行上人他阿真教が敦賀に滞在中、気比社の西門前参道は沼地(東の入り江)にあり、参拝者が難儀していた。それをを知った上人は、自ら浜から砂を運び改修した。これが三丁馬場縄手(現神楽通り)である。
神楽通り交差点モニュメン
結城町歴史案内碑敦賀城と大谷吉継
天正11年(1583)蜂屋頼隆が5万石の敦賀領主となり、敦賀で初めて平城が笙の川左岸に築かれた。しかし、同17年頼隆が病死すると、豊臣秀吉麾下の大谷吉継が跡を継いだ。頼隆が着手した敦賀の町割りを完成し、現代敦賀の基礎がq形成された、
武家政権と敦賀 10世紀から12世紀後半にわたる平安末期すなわち古代、律令制による貴族社会末期、武者が新しい歴史の幕開けを告げ、平氏によって武者の中央政府が成立した。 それは日本の歴史上迎えた「中世」「封建」という原理変革であり、江戸幕末までの武家政権のまえぶれであった。中世は鎌倉幕府、足利氏の室町幕府と続くが、東国の武家政権と京都の朝廷勢力との相克を内包しており、建武の中興から南北朝争乱、守護体制から領国大名時代へと変遷した戦乱の時代であった。しかし、この激動の中から宗教、文芸など現代日本の底流が醸成された。 敦賀における武士の誕生 今昔物語に見る「芋粥」の説話は、都の下級貴族でありながら、農村に土着し、武士となった平安中期の藤原利仁(としひと)を語る。利仁将軍が居ついた場所は敦賀郡の御名であったと言われている。『尊卑分脈』に、利仁将軍を祖とする一族の系図が収められている。利仁の後裔として、疋田斉藤氏と河合斉藤氏の二つのながれがあった。疋田斉藤氏は北陸道の物資集積地である敦賀津から琵琶湖への官米、年貢米の輸送安全にたずさわったものと思われる。
支配者の変遷 | |||
平氏政権 平治の乱(平治元年1160年)後、武家の平氏が武力をもって急速に勢力を伸ばし、一門から公家・殿上人を輩出し、平氏政権を成立した。平氏は貿易特に日宋貿易に力を入れ、福原遷都をも画した。清盛の弟重盛が越前守となり、琵琶湖への運河計画を画し、実地したと伝承されている。 |
鎌倉時代・南北朝 越前国守護は比企朝宗のち、島津・後藤氏相次ぎ、足利尊氏は斯波高経を派し、延元中(1336~39)新田義貞、皇太子恒良親王、尊良親王を奉じて敦賀金崎城に入り、国人瓜生保・重兄弟が杣山に応じた。建武の中興の挫折後足利氏の室町幕府となる。 |
守護斯波氏の没落と朝倉氏の台頭 一般に、南北朝・室町期の守護は京都に滞在するのを原則とした。そのため、国もとに守護代・小守護代などを置いて任国支配にあたらせる一方、京都にも在京守護代や在京奉行などを置いた。複雑な被官構成は、応仁の乱から始まる戦国争乱の中、斯波氏の没落、守護代などの下剋上を促した。その中から領国大名として朝倉氏の覇権が確立する。 |
朝倉氏の滅亡と大谷吉継 戦国争乱も織田信長・豊臣秀吉によって天か統一が進み、敦賀には蜂屋頼隆から大谷吉継が敦賀城主となり、近世敦賀の繁栄に繫がる町割りなどを行った。 |
中世敦賀及び周辺の戦い | |||