敦賀(津)は中世の前半、気比社が中心的な役割を果たしつつ、流通の要を担った。しかし南北朝、戦国期、その位置的条件から幾たびかの戦場となった。天下統一への状況が高まると、敦賀の町割りが行われ、近世・近代の敦賀町の原型を確立してゆく。
織豊時代~戦国時代~南北朝~鎌倉時代~平安(末期)

詳細は年譜表

   敦賀町の原型
  敦賀の町は、中世を通じて、古代からの東西の入り江が縮小し、東に移動した笙の川(運河?)と児屋の川によって三分(川西、川中、川東)され、近世、近代の町割りの基礎が形成された。    
支配体制の変化
『敦賀市史通史編』第4節 中世の敦賀町図より作成
中世敦賀町
 
敦賀の町割り 
鎌倉時代 守護・地頭の進出
鎌倉時代に入ると、武家の支配者守護・地頭による荘園支配権の簒奪が目立ち始めた。敦賀地域も彼らの国衙領と荘園(集落)からの管理収奪のなかにあった。


室町時代 支配体制の重層化
荘園は存続したが、既存の中央貴族(商連門跡など)・寺社(気比社・西福寺など)と武士・在地領主などと権利・義務が重層的にかつ複雑に形成された。


戦国時代 領国の成立
戦後時代を通じて、戦国大名(朝倉氏)による一円支配すなわち領国支配が確立していく。そして、織田信長・豊臣秀吉による天下統一が進み、秀吉の検地によって荘園は消滅し、豊臣政権の蜂屋頼隆・大谷吉継が城主となり、近世につながる敦賀の町づくりが進められた。

「村と浦の歴史」参照
豊臣秀吉による天下統一以前、権門勢家・寺社からの特権や職能団体(座制度)の乱立が常態化していた。また、敦賀の町も東西入り江の間(後に川中と称される)に形成されていた。


一国一城令
天下統一の進展は戦闘用の山城は無用となり、一国一城令により権威と行政用の平城(敦賀城)が庄の川(笙の川)の西方に築城され、行政地域を形成した。


職能別地域の萌芽

流通の全国化および商業の発展はいよいよ畿内と日本海側諸国を中継する敦賀津の重要性は高まった。商業施設や職能民の増加によって町機能の整備が行われた。近世敦賀の原型となる「町割り」がおこなわれた。
お砂持ち神事
承安3年(1301)時宗2代目遊行上人他阿真教が敦賀に滞在中、気比社の西門前参道は沼地(東の入り江)にあり、参拝者が難儀していた。それをを知った上人は、自ら浜から砂を運び改修した。これが三丁馬場縄手(現神楽通り)である。
お砂持ち神事モニュメント
神楽通り交差点モニュメン
 
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結城町歴史案内碑
敦賀城と大谷吉継
天正11年(1583)蜂屋頼隆が5万石の敦賀領主となり、敦賀で初めて平城が笙の川左岸に築かれた。しかし、同17年頼隆が病死すると、豊臣秀吉麾下の大谷吉継が跡を継いだ。頼隆が着手した敦賀の町割りを完成し、現代敦賀の基礎がq形成された、
中世の敦賀津
日本海における海運は原始古代より続けられ、中世に入って荘園制の発展、商手工業の発達によって、流通の範囲はより広くなり、拡充していった。日本海側の諸国と京都・奈良を結ぶ最大の要港である敦賀津は、いよいよその重要さを増すようになった。日本海側諸国からの物資はもとより、越前内陸部のものも九頭龍川から三国津を介して敦賀津に陸揚げされ、琵琶湖水運などを通して畿内に運ばれた。また、越前国の国衙である府中とは西街道(馬借街道)を通して往来された。いよいよ敦賀津は近世の「北の都」といわれた繁栄の基調を形成していった。また、中世は大航海時代の様相を呈し、日栄貿易、敦賀港も唐物の輸入によって国際性も持つようになった。  

敦賀津
年貢物資の輸送 太閤板 敦賀津の国際性 敦賀升
敦賀津は古代より、畿内と北国諸国を結ぶ要港であり、諸国からの貢納物を畿内に届ける窓口として官港の地位を占めていた。廻船業の発達により東北津軽地方にも及んでいた。敦賀の気比荘や気比社の本家九条家への年貢物資輸送でも賑わった。 中世末期、豊臣秀吉による天下統一により流通は全国規模により進み、秋田杉の太閤板が伏見城築城のため畿内に敦賀津を経由して運ばれた。 平安末期、中国船の来着は頻繁の度を加え,九州大宰府経由でやってきて、宋の明州の牒状の写しを朝廷に送った。(扶桑略記)このようなことから、当時、筑前博多津との間に海外貿易(日宋貿易)にかかわる独自の海上ルートができていたと思われる。その後、有力者個人は敦賀津における舶来品の確保に意欲を燃やした。唐物の舶来品と言えば、敦賀津を連想する貴族もいた。 日本において「升」という量の単位は大宝律令にまず見られるが、荘園制の進展とともに各地で勝手な升が使われるようになったが、商業の活発化は、それぞれの市場で共通する升を生み出した。これを見世升、町升といわれる商業升である。敦賀津においてもこの見世升が見られ、敦賀地域の商業の活発化を覗うことができる。

七里半越え
太閤板の輸送
表9 太閤板の輸送
注) 「秋田家文書」により

北宋銭
川舟座と河野座   気比社の活躍
中世末、敦賀津では海運業者仲間が川舟座と河野座形成して独占的な営業権を持っていた。また、敦賀津に大きな支配権を保持していた気比社と結びつき、早くから生まれていたものと推測される。 気比神人が、本社神人をはじめ、敦賀郡の大縄間浦・沓浦・手浦の三か浦や丹生郡の大谷浦・干飯浦・玉河浦・蒲生浦、さらに能登・越中国奈古浦(奈呉浦、新湊市放生津)・越後国曾平・佐渡にまで分布し、和布・苔・丸蚫(丸鮑)・塩鮨桶・鮭などを貢進していることに注目しておく必要があろう。気比神人となった海民の有力者の海上交通・商業・金融・漁撈のネットワークは日本海に広く及んでいたが、こうして神人・供御人制は若狭・越前においても軌道にのったといってよかろう。
   気比社の公事  
武家政権と敦賀
  10世紀から12世紀後半にわたる平安末期すなわち古代、律令制による貴族社会末期、武者が新しい歴史の幕開けを告げ、平氏によって武者の中央政府が成立した。 それは日本の歴史上迎えた「中世」「封建」という原理変革であり、江戸幕末までの武家政権のまえぶれであった。中世は鎌倉幕府、足利氏の室町幕府と続くが、東国の武家政権と京都の朝廷勢力との相克を内包しており、建武の中興から南北朝争乱、守護体制から領国大名時代へと変遷した戦乱の時代であった。しかし、この激動の中から宗教文芸など現代日本の底流が醸成された。  
敦賀における武士の誕生
今昔物語に見る「芋粥」の説話は、都の下級貴族でありながら、農村に土着し、武士となった平安中期の藤原利仁(としひと)を語る。利仁将軍が居ついた場所は敦賀郡の御名であったと言われている。『尊卑分脈』に、利仁将軍を祖とする一族の系図が収められている。利仁の後裔として、疋田斉藤氏と河合斉藤氏の二つのながれがあった。疋田斉藤氏は北陸道の物資集積地である敦賀津から琵琶湖への官米、年貢米の輸送安全にたずさわったものと思われる
  支配者の変遷   
平氏政権
平治の乱(平治元年1160年)後、武家の平氏が武力をもって急速に勢力を伸ばし、一門から公家・殿上人を輩出し、平氏政権を成立した。平氏は貿易特に日宋貿易に力を入れ、福原遷都をも画した。清盛の弟重盛が越前守となり、琵琶湖への運河計画を画し、実地したと伝承されている。
倉時代・南北朝
越前国守護は比企朝宗のち、島津・後藤氏相次ぎ、足利尊氏は斯波高経を派し、延元中(1336~39)新田義貞、皇太子恒良親王、尊良親王を奉じて敦賀金崎城に入り、国人瓜生保・重兄弟が杣山に応じた。建武の中興の挫折後足利氏の室町幕府となる。
守護斯波氏の没落と朝倉氏の台頭
一般に、南北朝・室町期の守護は京都に滞在するのを原則とした。そのため、国もとに守護代・小守護代などを置いて任国支配にあたらせる一方、京都にも在京守護代や在京奉行などを置いた。複雑な被官構成は、応仁の乱から始まる戦国争乱の中、斯波氏の没落、守護代などの下剋上を促した。その中から領国大名として朝倉氏の覇権が確立する。
朝倉氏の滅亡と大谷吉継
戦国争乱も織田信長・豊臣秀吉によって天か統一が進み、敦賀には蜂屋頼隆から大谷吉継が敦賀城主となり、近世敦賀の繁栄に繫がる町割りなどを行った。

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