敦賀には多くの古社、歴史的神社がある。古代律令制下、敦賀は行政区分として敦賀郡(コオリ)であり、越前国に属していた。平安期の延喜式神明帳に記載されている式内社は越前国126社のうち43座を占め,隣国の若狭国42座に匹敵する。むろん、式内社以外に、地域の神社が多くあり、後年鎮座した神社も多い。数戸から数十戸の集落にはそれぞれ神社と寺院があり、集落の人々はその寺社を連綿として護り、集落の精神的活動の場にしてきた。
敦賀の神社
当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる
敦賀の起源に関係する神社 式内社 尊王攘夷による神社
気比神宮摂社 角鹿神社
敦賀の起源において、加羅からの渡来人、ツヌガアラシトの伝承があり、その名から角鹿(敦賀)成立が推定される。気比神宮の摂社でツヌガアラシトを祭神とする角鹿神社
式内社とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十延喜式神名帳神社に記載されたを言う。、当時「官社」とされていた延喜式の神名帳に載せられ、毎年の新年祭に官幣または国幣に預かれる官社は、敦賀(こおり)には43座あったとされている。(当時の敦賀郡はおよそ現在の福井県越前町(南部)、南越前町までの領域)しかし、式内社の選定には政治色が強く反映されている。 旧官幣中社 金崎宮
幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを理想とした。慶応4年4月21日、勅命によりそれまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。建武中興十五社の一社である金崎宮は恒良親王と尊良親王を祭神として明治23年(1890年)旧社格官幣中社として創建された。

角鹿神社(気比神宮摂社)

 敦賀郡式内社一覧
気比神社7座 剱神社(越前町織田) 田結神社 野坂神社 角鹿神社 和志前神社 金前神社 阿蘇村利椋神社 加比瑠神社 丹生神社 久豆彌神社 志比前神社 大椋神社 市振神社 五幡神社 白城神社 横椋神社 横山神社 質覇村峰神社 高岡神社 鹿蒜田口神社 織田神社 石田神社 天利剱神社 天伊佐奈彦神社 天國津比盗_社 玉佐々良彦神社 伊多伎夜神社 伊部磐座神社 鹿蒜神社 大神下前神社 三前神社 天八百萬比盗_社 天比女若御子神社 天國津彦神社天鈴神社 信露貴彦神社
※青字は不詳もしくは現存せず。
  
※黄色字は現在南越前町もしくは越前町

『敦賀市史』通史編代四編社寺古蹟第一章神社より

画像 福井県観光連盟素材集より


各集落神社一覧

旧官幣中社 金崎宮
(敦賀市金ヶ崎町)
別宮神社
古代渡来人(渤海使など)を留め置いた施設松原客館の比定地に別宮(気比神宮の別宮)神社がある、神社の周囲で古代遺跡が発掘されている。
金崎宮摂社 絹掛神社
金崎宮摂社、金ヶ崎城で敗死した南朝側の諸士を祀る。藤原行房卿 新田義顕卿 気比氏治命 気比斎晴命 瓜生保命 瓜生義鑑命 里見時成命 里見義氏命 由良具滋命 長浜顕寛命 武田与一命  などの将士が祀られている。

別宮神社(櫛川)

絹掛神社
渡来人の痕跡 松原神社
幕末、水戸藩で挙党した天狗党は、武田耕雲斎を首領として尊皇攘夷の志を朝廷に奏上すべく上洛を企てた。しかし、この敦賀で幕府軍の軍門に降る。天狗党志士352人
が斬首の刑となる。祭神 正四位武田伊賀守以下四百十一柱明治7年11月創建。
水戸天狗党

白城神社(白木)

信露貴彦神社(沓見)

松原神社(松原町)
常宮神社
  神功皇后の「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」との神託に因ると伝え、古くは「つね(の)みや」と訓読されていたが、中近世から音読されるようになり、明治元年(1868年)に現在の社名に決定した。気比神宮との関係は、古くは氣比神宮を「口宮」、「ひもろぎの宮」、「上社」と称すのに対して、当社をそれぞれ「奥宮」、「鏡の宮」、「下社」と呼応した。   
常宮神社本殿
本 殿 
 
海側に県道ができる以前の拝殿(気比神宮に向かっている)
常宮神社中門
中門から本殿
朝鮮鐘
新羅時代の梵鐘の遺品は、日本に5例、韓国でも6例が現存している。この鐘は日本に伝わっているものとしては一番古く、唯一つ国宝に指定されている。銘文から9世紀後半に作られたこと思われる。。社伝によると、この鐘は、16世紀末頃、敦賀領主であった大谷吉継が、豊臣秀吉の命を受けて常宮神社に寄進したものとされているが、それ以前に倭寇(わこう)によってもたらされたものだという説もある。
朝鮮鐘
国宝 朝鮮鐘
天八百萬比当スは上古より養蚕の神として霊験あらたかに此の地に鎮まり給い、今から約二千年前、仲哀天皇の即位二年春二月に天皇、皇后御同列にて百官を率いて敦賀に御幸あり笥飯の行宮(気比神宮)を営み給うた。その後天皇は熊襲の変を聞こし召され、紀州へ御巡幸せられ陸路山陽道を御通過、山口県へ向はせ給う。皇后は二月より六月まで此の常宮にとどまり給い、六月中の卯の日に海路日本海を御渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会遊ばされ給うた。此の由緒を以って飛鳥時代の大宝三年(七〇三年)勅を以って神殿を修造し、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・日本武命・玉妃命・武内宿禰命を合わせまつられた。爾来、気比神宮の奥宮として一体両部上下の信仰篤く小浜藩政まで気比の宮の境外の摂社として祭祀がとり行われた明治九年社格制度によって県社常宮神社となって気比神宮より独立した。
神社案内より 
戦前から戦後の神社
廃仏毀釈運動(国家神道の端緒)
明治政府の神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)となった。江戸期、平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。
国家神道
戦前の大日本帝国憲法は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。しかし、明治政府は「神道は宗教にあらず」といって実質的に国教化し(国家神道)、神社への崇敬を臣民の義務として、神宮遙拝は日常化され、家庭や公共機関などに神札を祀ることが奨励された。それは天皇の神格化、軍国主義の支柱となり、不幸な戦争への道に国民を強いた。
鎮守の杜とエコロジー
神道の原初は信仰された山や森があり、そこに社が建てられた。鎮守の杜は日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。日本の森林生態学では鎮守の森は重視される。しかし、遡って、明治期の神社合祀令によって多くの神社が廃止され、鬱蒼とした鎮守の森は伐採された。民俗学者南方熊楠は、この伐採による自然破壊を危惧し、神社合祀に反対している。
  戦後の民主化(政教分離)  
  戦後の日本国憲法は信教の自由を定めながら、政教分離の具体的な規制として●特権付与の禁止、●宗教団体の「政治的権力」行使の禁止、●国の宗教的活動の禁止を定めている。しかし、完全な分離は不可能な側面もあり、靖国神社公式参拝問題など多くの問題が生じている。  
信教の自由  
神道政治連盟国会議員懇談会
参考文献
敦賀市史通史編 福井県史
敦賀郡神社誌 敦賀郡史・他

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