連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領基本方針は日本の民主化・非軍事化・軍国主義の根絶であった。また、民衆の思想を束縛していた治安維持法の廃絶、政治・信教・民権の自由が保障された。 |
復 興 | |||
昭和20年7月12日、米軍戦略爆撃機B29の焼夷弾によって敦賀市街地は灰塵に帰した。その後の艦載機による機銃掃射などを経て、8月15日終戦を迎えた。町の復興は連合国軍占領下、官民一体となって進められた。 |
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崩壊しなかった主な建物 | 市街地都市計画 | バラック・市営住宅建設 | |
米軍の空襲はほとんど焼夷弾であったためレンガ・コンクリート造りの建物の多くは崩壊を免れた。しかし、戦後、旧大和田銀行。赤レンガ倉庫以外多くは取り壊された。 |
復興における最大の事業は市街地の都市計画であった。昭和21年9月「特別都市計画法」が公布され、被災都市の敦賀もその対象となった。旧来の道路から新しい区画整理が行われた。これによって、戦後敦賀は大きなインフラ資産を有することになった。 | 被災地域の家屋焼失者にとって、住居の手当てが直近の課題だった。焼け残った資材による仮住居(バラック)から市営住宅の建設が急がれた。 | |
大和田銀行(現敦賀市立博物館) 旧市役所(現文化センター) 赤レンガ倉庫 税 関 昭和41年取り壊された。 元ソ連領事館昭和18年本町2移転 戦後商工会議所 |
『敦賀市戦災復興史』より作成 復興の鍬入れ式(田保敦賀市長) |
焼け残った材料で作られたバラック 市営住宅(昭和24年)間取り 『敦賀市戦災復興史』より作成 昭和22年曙町市営住宅 後方は新築された北小学校・気比神宮 |
政教分離 | |||
大日本帝国憲法は第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。しかし神道は「神社は宗教にあらず」といって実質的に国教化され(国家神道)、神社への崇敬を臣民の義務とした。日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用された。 戦後日本における政教分離原則は、当時日本を占領していたアメリカを中心とする連合国総司令部 (GHQ) が、1945年(昭和20年)12月15日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令がその始まりである]。そして、1946年1月1日の昭和天皇のいわゆる人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった |
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気比神宮 |
金崎宮 |
劔神社 |
野坂神社 |
基本的人権の擁護 | |||
大日本帝国憲法(明治憲法)は人権は恩恵的性格が強いもので、その保障も法律の範囲内で認められるものにすぎなかった。したがって、これらの権利は治安維持法など立法権によりほとんど自由に制限し得るものであった(一元的外在制約型)。 対して、日本国憲法第11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」としている。 | |||
治安維持法とテロ等準備罪法案 | |||
2017年6月14日「テロ等準備罪法案」が参議院で強行採決された。安倍政権は取り締まりの対象が、あくまでもテロ組織などの「組織的犯罪集団」に限定されており、「一般市民」は対象外であるとしている。しかし、「一たび内心を処罰する法律をつくれば、戦前の治安維持法のように時の政権と捜査機関次第で恣意的に解釈され、萎縮効果を生み、自由な社会を押し潰していく懸念は歴史の教訓から否定できない。 |
農村の民主化(農地改革) もともと農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかった。GHQの威を借りて昭和22年断行され、小作人開放が実現した。2年間で不在地主の全貸付地と在地地主の全国平均の保有限度1ヘクタールを超過する貸付地を強制買収し、自作農創設を対象とする。また、小作料を水田25%、畑15%を最高小作料とした。 (農創設特別措置法案・他)
小作地の解放見込み | 農地被買収者国庫債券 |
地主の抵抗 | |
200万ヘクタールと見込まれ、昭和21年12月26日の農地調整法と自作農創設特別措置法の改正により牧野の解放、現在の事実に基づいて買収する遡及買収が追加され、農地改革はより徹底したものとなった。 | 抵抗形態としては、小作貸付地の脱法的取り上げ、法的根拠を持たない陳情、法的根拠を持つ異議申立、訴願、訴訟などがあった。敦賀においては地主勢力が強くなく、農地委員会は耕作者(小作人)の立場にたった運営が行われた。 | ||
敦賀の農地改革 |
農地改革による買収、売渡によって小作地は大きく変化した。(表148~150)その結果、地主的土地所有は解体され、戦後の農業発展の主体となる自作農が広範に出現し、耕作権も強化された。また、昭和23年には、戦時下の農業会にかわって敦賀市農業協同組合が設立された。土地改良主体も耕作者となったことで、生産者に有利になった。しかし、農地改革は政治的には成功したかに見えた政策であったが、大規模経営が世界的に主流になる中で、土地の所有者が大幅に増加した日本の農業は機械の稼働能率が低く、先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。また都市化優先政策と食管制度温存による米優先農政により、次第に日本農業は国際競争力を低下させていくこととなる。 |
画像提供 印 敦賀市立博物館提供 印 敦賀市提供
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