戦後日本は安定成長期(1973-1986),・バブル期(1986-1991・)経済停滞期(1991~) の経済変転を経て、少子高齢化・グローバル化・各格差を生じている。敦賀も他の地方と軌を一にしているが、敦賀では北陸トンネル・深坂トンネルの開通、北陸自動車道など交通ネットワークの進展によって中継都市としての価値を希薄にしつつある。他方、原子力発電所誘致によって町に活況をもたらし、市の財政に寄与した。しかし、福島第一原子力事故以降敦賀は次への模索が余儀させられている。 |
自然村から行政村 | |||||||||||||||||||||
近代以前の 「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。明治政府は中央集権化のため、自然村の合併が推進され、新たな「村」ができた。これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。敦賀では敦賀町と周辺6ヶ村とした。戦前昭和12年、敦賀町と松原村合併、「敦賀市」となり、他5ヶ村は敦賀郡となった。 | |||||||||||||||||||||
旧自然村内にはそれぞれ寺と神社が護持されている。 村人の精神的支柱でもある。 |
『敦賀十勝』より東浦村五幡浦 |
町村合併 | |||
町村合併促進法(昭和28年) 政府は町村の合併によって、適正な行政規模、財政の強化によって国庫補助の軽減、地方自治意識向上を図るものだった。敦賀においても近隣五ケ村との合併を目指した。 合併交渉は昭和28年6月から始まった。しかし、各村の事情があり、交渉は紆余曲折、行き詰まった。しかし、二州地方事務所が斡旋に入り、翌年合併の合意を得た。 |
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敦賀市・五ケ村合併 | |||
敦賀市役所 |
東浦村役場 |
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中郷村役場 東郷村役場 |
敦賀市史通史編(下)より |
粟野村役場 愛発村役 |
市街地の拡大 | |||
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1974(昭和49年)現在の敦賀市本庁舎が完成した。辺りの地域を「中央町」とした。旧市街地からの移転は市街地拡大の象徴的なことでもあった。戦後復興が昭和30年代以降戦後高度経済成長に乗って経済・人口・市街地など市勢を拡大していった。モータリゼーションの進展、大型店舗の進出、など郊外への市街地拡大は都市構造に変革をもたらし、旧来の市街地は商業地域として衰退し核家族化とともにスプロール化していった。1981年 国道27号金山バイパス、国道27号金山バイパが開通し、住宅も核家族化とともに主に西南地域に広がっていった。 | ||
昭和36年 三島町から旧27号(粟野方面)を望む |
2012年撮影(国土交通者) 敦賀出身 故大道安次郎博士 著 著者 敦賀出身 故大道安次郎博士人となり |
高速道路 |
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旧市庁舎(桜町)現文化センター |
1974年(昭和49年)現市庁舎完成 昭和49年現在の敦賀市本庁舎完成。 |
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少子・核家族化 |
地方独自(立)型の町へ 敦賀は他の地方都市と画した独自の歴史的側面を持っていた。しかし、時代の変容、特に交通体系の進展によって中継地機能を減少させている。。また、IT社会の進展は中央と地方の間を変革させている。この時代趨勢の中で地方独自型の町作りがこれからの課題であろう。
(附)都会と田舎と敦賀 | ||
都 会 | 敦 賀 | 田 舎 |
高い家賃・非人間的住居環境 | 適当な家賃・住居環境 | 過疎化・空き家 |
やりがいのある仕事 | やりがいのある仕事が少ない | 雇用の機会なし |
職住の隔離 | 職住近接 | 職住同一 |
住居地域内日常性・衛星都市 | 地域内日常性・地方独立型都市 | 不十分な日常性・孤立した村々 |
自然から隔離 | 簡単に山・海や公園にたどり着ける | 自然の美しさ |
壮大な建築群・地下街・かすんだ空 | 中・低家屋・澄んだ空気と水 | 手付かずの土地・新鮮な空気 |
群衆の中の孤独 | 血縁・地縁関係 | 血縁 |
ドラステイツクな歴史 | 古く特異な地域史 | 古く単調な集落の歴史 |