幕末慶応3年加賀藩の運河計画の時、本格的に調査測量したて作成された「直高図」
高樹文庫・射水市新湊博物館蔵

日本海側で最も太平洋に近い敦賀、京の都、商いの町大坂の間にある琵琶湖、大量輸送の主役水運によって結ぼうと計画した。それは壮大な計画だが、荒唐無稽でも、奇想天外でもなく、多くの人が持つ、当然の希望であった。しかし、古来からの計画は全て実現しなかった。その時代では技術的に不可能であったこともある。その時代の状況が中止させたこともあった。

 
伝 
平重盛の運河計画
平安末期、1150年頃(久安6)越前国司であった、平清盛の嫡男平重盛が敦賀・琵琶湖の運河計画をしたと伝えられている。敦賀から深坂峠、近江塩津に至るルートであった。陸路での運河計画であったことから、敦賀笙ノ川、深坂峠から大川を利用しようとし、実際深坂峠近江(滋賀県)側付近で掘削作業にかかったと伝えられている。しかし、作業は難航し、中断した。また、平清盛が日宋交易の拡大を目指して播磨国福原(神戸)に遷都したことに呼応し、水路による連結を目指したものであったのか。このような壮大な構想が、無かったとは決して否定できない。

深坂地蔵案内石碑
人これを読んで深坂地蔵又は堀止地蔵と云う。これは越前の国主である平重盛が琵琶湖と日本海を結ぶ運河を計画し,,,,,,(中略),,,,,,,当時その試験屈を現在の深坂地蔵境内で行ったが大きな石が現れ掘り進む事が出来ず石工の職人が金矢にてうちくだくべく穴をあいけたところ、突然腹痛にかかり不思議に思った役人が作業を中止して此の石を掘起こしたところ思いの外御地蔵様の御姿だった。,,,,,,(中略),,,,,其れ以来掘始め地蔵変じて堀止地蔵とも言伝えます。
堀止地蔵
近世における運河計画
蜂屋頼隆・大谷吉継 天正7〜12?(1584) 豊臣政権下、共に豊臣秀吉の部下であり、敦賀城主。運河計画を構想したと伝えられている。
田中四郎左衛門 寛文9年〜(1688)

元禄6-9年(1693)
京都の豪商。寛文9年(1669)近江塩津より深坂峠付近の新道野まで6kmを開削、敦賀までの16kmを疋田川()笙ノ川を利用する立案で、幕府に許可を願い出たが取り上げられなかった。しかし、元録8年(1695)京都の豪商5人とともに願い出る。幕府も興味を示し、実地調査をするも、敦賀側庄屋達の猛反対で沙汰やみとなる。この時、水運の利点と同時に、琵琶湖の湖水排出による水害防止も盛りこまれた。
幸阿弥伊予 享保2年(1717) 湖水の日本海流出、湖面低下による新田開発。宇治、伏見、淀を浚渫(しゅんせつ)して大坂まで水運で結ぶ。新田開発で15.6石増を試算する。莫大な経費のため却下された。
幕府の運河計画   
文化12年(1805)大坂の豪商筋屋六べ衛を金主にして幕府が敦賀から疋田までの河川の開削を実施。(疋田の引き舟)あわせて、七里半越えの山中峠までの道路を改修した。この敦賀・近江大浦までのルートは、国境の山を掘削するという非実現的なものではなく、その後改修を加えながら幕末まで利用され、活況を呈した。  

復元された疋田川船船着場 往時の疋田川船の様子を往時の疋田川船の様子を描いた壁画。
(旧愛発公民館前)
疋田舟川で使われていた引き舟(復元:旧愛発・民館展示) 19世紀末のドイツの運河の風景。艀は馬や人に牽引されて進んでいた
  加賀藩の運河計画  

水位計
慶応2年(1866)加賀藩は自国の米を大阪に送るため、西廻り航路が長州事件などでほとんど機能しなくなっていたことから、幕府と利害が一致して、加賀藩の一手切り(単独事業)として許可された。加賀藩は測量のため、江戸後期の和算家石黒信由の孫である北本半兵衛、信由の曾孫石黒信基に実施を命じた。「直高図」「直径・直高図」といったものが作られた。それは敦賀から琵琶湖までのルート上の各測点の距離と高低を、一枚の絵図で立体的に読み取れるものである。これは明治以前の地図史上、他に例をみない画期的なものであった。しかし、この計画も大政奉還によって実施されなかった資料提供 高樹文庫・射水市新湊博物館蔵
強盗式磁石台と軸心磁石
「」運河計画図拡大
一仙の「運河開盤計画図」
 絵図拡大
越前近江糧道測量絵図
琵琶湖の水運
古代より日本海沿岸・蝦夷の物資の敦賀から深坂越え、七里半越え(現国道161号)で西近江に出て京に運ばれた。その多くは琵琶湖の水運(丸子船)を利用した。琵琶湖の北岸では塩津、大浦、海津の湊、京に近い大津などが丸子船の基地となった。本州縦断運河計画も琵琶湖の水運が重要な役割を果たす。  
丸子船
琵琶湖水運の主役丸子船の模型(丸子の館展示)
江戸期大浦湊ジオラマ
琵琶湖北岸大浦港ジオラマ(丸子の館展示)
琵琶湖海津湊
琵琶湖北岸海津港
明治・大正・昭和の運河計画
吉田源之助「阪敦運河」 明治5年(1873) 敦賀と琵琶湖間に運河を掘削して、淀川を利用して汽船を通船させよとするものである。明治38年貴族院で採択されたが、折からの日露戦争のため中止となった。
吉田幸三郎(源之助子息)
「阪敦大運河計画」
大正12年(1923) 父源之助の意志を継いで、敦賀・大坂を結ぼうとした。3000t級の汽船、4000t級の軍艦を通船させようとした。
実現可能な大琵琶湖運河計画  

田辺朔郎
昭和8年(1933)琵琶湖疎水を成功させた田辺朔郎は敦賀・塩津間に川幅85m、水深10mの運河を掘削し、1万トン級の汽船を通そうとした。日本海と琵琶湖の水位差85mは閘門水路方式(パナマ運河)で解決しようとした。満州国と京阪工業地帯の間を船鉄道(青函連絡船)で物流ネットワークを構築しようとした。5億7665千万円の総予算で、完成まで10年を予定していた。この壮大な計画は琵琶湖疎水を成功させた田辺の設計であり、実現可能なことと受けとめられていた。しかし、大陸経営の悪化、盧溝橋事件と戦局も切迫性を帯びていった。この大琵琶湖運河計画も実現に至らなかった。田辺朔郎は昭和19年(1944)死去。 
琵琶湖疎水関門
 
琵琶湖疎水水路
谷口嘉六・宮部義男
「はしけ鉄道計画」
昭和10年(1935) はしけ鉄道とは、はしけを一定規格のコンテナとして、汽車に乗せ、山岳地帯を抜けるものであった。深坂峠付近に3kmの鉄道用トンネルを掘削する計画である。これによって、山岳地帯の水路掘削の困難さが解決し、工事予算も大幅に削減されると謳った。しかし、この計画も大陸の戦局悪化によって消滅した。
はしけバージ、barge)
港湾において、沖合いに停泊した貨物船からおろされる荷物を川沿いの工場・倉庫へ運送するために活躍したが、貨物船のコンテナ化やコンテナトレーラーによる陸上運送に押されて港湾物流からも押し出された。
本州縦断運河構想 昭和38年(1963) この構想は敦賀湾〜琵琶湖〜伊勢湾を運河で結び、3万トン級の船舶を通す大構想であった。敗戦後の国力回復と琵琶湖の水位調整を目的にしていた。しかし、この計画も膨大な予算の問題もあり、その後のモータリゼーションの進展もあって、たち消えになった。
  水運から陸運   
   明治以降の近代化は鉄道の敷設、車両道路の開設を急ぐことから始まった。陸上での大量輸送には水運と鉄道が両輪だった。しかし、戦後の経済復興、高度成長では自動車が主役にとって代わった。陸上における運河計画は近代化の中で、時代と隔離していった。壮大なこの運河計画も、敦賀の歴史の1ページであった。