彼の城の有様、三方は海に依りて岸高く巌(いわほ)滑らか也。巽(たつみ)の方に当たれる山一つ城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下すといえ共、岸絶(たえ)地僻(さがり)にして、近付寄せぬれば、城郭一片の雲の上に峠(そばだ)ち、遠くして射れば、其の矢千仞の谷の底に落つ。『太平記』 |
皇太子桓良親王敦賀へ下向 |
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南北朝のはじまり 楠正成の挙兵で始まった元弘の変(1331年)から、新田義貞、足利高氏等は後醍醐天皇のもと、執権北条高時の鎌倉幕府を倒した。しかし、王政復古を掲げる後醍醐天皇と武家政権を打ち立てようとする足利尊氏は対立する。足利尊氏は持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて後醍醐天皇、新田義貞、楠正成と戦う。湊川の戦いで勝利した足利側は京都で室町幕府を樹立、後醍醐天皇は奈良吉野で対立し、南北朝時代が始まる。 新田義貞敦賀へ 湊川の戦いに敗れた後醍醐天皇は比叡山に籠るが、建武3年(1336)秋、足利側と休戦した後、12月吉野に走った。その間、後醍醐天皇の命によって、新田義貞は恒良親王をともなって、敦賀へ下向の途に就いた。恒良の異腹の兄尊良(たかなが)親王、洞院公資の子実世らの公家、義貞の弟脇屋義助、義貞の子義顕、新田一族の堀口貞満・一井義時らのほか、千葉貞胤・河野通治らの武士がこれに従った。 |
下 向 経 路 |
幕府軍の対応と新田軍の雪中行軍 足利幕府方の対応は、下向を予期していたこともあって、迅速だった。越前守護斯波高経の軍勢は近江・越前国境山中峠を固めた。琵琶湖北岸の塩津・海津あたりに到着した義貞軍は、予定の七里半越え(現国道161号)の進路をとれなくなった。敦賀への通路を断たれた義貞軍は北国街道を北上し、木の芽峠(北陸道)に向かった。『太平記』巻一七によれば、例年になく寒冷な年にあたり、その日も風雪激しく、山越えには厳しい天候にさいなまれ凍死する者が続出し、従軍してきた河野通治軍は本隊とはぐれ、佐々木・熊谷(越前河口荘の「悪党」)に襲撃され討死する。千葉貞胤も斯波高経に降参し、義貞軍の疲弊はおおうべくもなかった。ともかく、北国街道から迂回して木ノ芽峠を越えた義貞軍は、ようやく10月13日、敦賀津に到着したという。『太平記』巻一七によれば、敦賀で義貞軍を迎えたのは気比社の気比氏治で、氏治は恒良・尊良の両皇子と新田義貞・義顕らを金ケ崎城に入れ、その他の軍勢は敦賀津の在家に分宿させたという。 |
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下向の経緯後醍醐・足利尊氏の講和に苦しい立場に立たされたのは新田義貞であったであろう。講和となれば義貞は戦うべき目的を失い、、戦いを続ければ賊徒の汚名を着ることになりかねない。同じ新田一族で義貞の軍に参じていた堀口貞満が、後醍醐に抗議したと伝えられている。後醍醐はこれに感じて皇太子恒良(つねなが)親王に皇位を譲り、新帝恒良を義貞に託して越前に下らせ反攻の時を待つことになったと『太平記』巻一七は記している。 | |||
幻の北陸朝廷 | |||
新田義貞像/菊池容斉画(明治時代) Wikipedia「新田義貞」より |
一説にいう北陸朝廷構想である。、北朝暦歴の延元元年(1336)11月12日付結城親朝に充てて下された恒良の令旨と後醍醐(恒良の綸旨とも言われている)の綸旨が『結城文書』に伝来している(資2 結城文書一・二号)。文書の真偽に問題はあるが、新田義貞は綸旨をもって援軍を募っていたことは確かであろう。しかし、北畠親房の『神皇正統記』には譲位は記されておらず、後醍醐天皇が吉野で「もとの如く在位の儀てぞましましける」とある。これによって北陸朝廷は正史から外れ、幻となった |
御船遊管絃祭 両親王をお慰めしようと管絃の船を浮かべた故事 |
金ヶ崎城落ちる | |||
、 尊良(たかなが)親王自刃の見込地 |
金ケ崎城に残る軍勢の期待もむなしく新田義貞の杣山城からの背面攻撃も失敗し、城は完全に孤立した。圧倒的な大軍で包囲した幕府軍は兵糧攻めで、新田軍の疲弊を待った。『太平記』巻一八によれば、食糧に窮した城兵らはまず馬を食し、最後は死者の肉を食らって戦い続けたという。そして、3月3日からの最後の三日間は夜戦であった。飢餓と疲労に衰え果てた城兵は次つぎと討ち取られた。義顕と尊良は自害し、恒良は越前海岸の蕪木浦に逃亡を試みたがまもなく幕府方に捕らえられ、のち京都で毒殺された。ここに金ケ崎城は落城し、後醍醐が期待を寄せた反攻拠点の一つが失われた。 しかし、杣山城に退却した新田義貞はその後、転戦し再び金ケ崎城を奪還する。 |
恒良親王が隠れたと伝わる 蕪木の洞窟 (現南越前町甲楽城) |
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金ヶ崎城址は別名月見御殿と言われた。御殿跡からの敦賀湾の眺望 |
その後の戦い | |||
南朝方 瓜生 保の奮戦 | |||
新田義貞の最大の与力は嵯峨源氏の流れを汲む今庄杣山城主瓜生保だった。上野(うわの)ケ原の戦い、そして金が崎城の攻防では新田義貞等と幕府軍の背後を衝いて奮戦するも樫曲f金で敗死する。戦死の地、樫曲集落の山中に墓が建立されている。その後も一族は越前府中で幕府軍を破るなどして、新田義貞再起に寄与した。 | |||
杣山城遠望 福井県観光連盟素材集より |
杣山頂上城跡より |
湯尾峠砦跡 |
上野ケ原の戦い案内板 |
新田義貞の転戦 | |||
新田義貞 金ヶ崎城を奪還 新田義貞は敦賀樫曲での合戦に敗れ、撤退し、今庄杣山城で金ケ崎落城の知らせを知った。「有ルモ無キガ如ニテヲハシマシケル」と『太平記』巻一九は表現しているように、すぐに攻撃できる余裕はなかった。後日、義貞軍が活動を再開すると、幕府は府中(現越前市)に斯波高経を下して杣山城を攻撃させた。籠城戦が数か月に及んだが、今度は隣国加賀から敷地・山岸・上木らの武士が畑時能の誘引によって越前に侵入し、平泉寺衆徒の過半が足利方から離反し、斯波の軍勢に対抗した。明けて暦応元年(一三三八)二月、今立郡鯖波宿に偵察に出た脇屋義助の軍に斯波方の細川出羽守が攻撃をしかけたことから、両軍とも主力を投入しての全面戦争に発展し、結局斯波高経は府中を放棄して足羽郡(現福井市)に撤退した。義貞らはこののちも越前国内を転戦して軍事的主導権を握り、四月までに金ケ崎城を再び奪還した。 |
金ケ崎城を奪還された幕府は、若狭守護の斯波家兼・近江守護の佐々木道誉らをして金ヶ崎城を攻めさせた。朽木頼氏は、四月末に荒地(愛発)中山関から疋田にいたり、ついで金ケ崎城攻撃に加わっている(資2 内閣 朽木家古文書四号)。しかし金ヶ崎城は容易に落ちず、むしろ越前国内の義貞軍側の活動はより活発化していった。、五月に幕府は加えて土岐頼貞を越前に向かわせ戦況の打開を試みたが(『熊谷家文書』)、成果は上がらなかった。また、越後国南朝方が再び動きだし、越中国守護井上俊清・加賀国守護富樫高家の軍を撃破して越前に迫っていたという(『太平記』巻二〇)越後の池・風間以下の南朝方の動きはすでに前年四月には始まっており、越後の主だった幕府方の武士は在京しているという状況のなかで幕府もその対応に苦慮していたが(『市河文書』、『上杉家文書』)、越後勢と義貞軍が合体するとなれば、幕府軍のいっそうの苦戦は免れえぬところであった。北陸朝廷という軍事戦略の実現が現実化しつつあった )(福井県史第二章第一節金ヶ崎城奪還参照) |
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天筒山から金ヶ崎 |
一の城戸遊歩道 |
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新田義貞の最後 | |||
新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町) |
幕府方に思わぬ展開が待っていた。新田義貞の戦死である。南朝方の軍事的優勢のなかで足利方に残された黒丸城などへの本格的な攻撃が開始されて間もない閏七月二日の夜、偵察にわずか五〇騎ばかりの兵を率いて出た義貞は、藤島城(現福井市)に夜襲をかけようと黒丸城を出た。しかし、細川出羽守・鹿草(完草)彦太郎の軍勢と灯明寺畷で遭遇し、射手をもたぬ不利をつかれてまたたく間に義貞の従者は討たれた。その場にとどまった義貞も致命傷を負い、自害して果てたという。 | 新田義貞墓廟 称念寺 (福井県坂井市丸岡) |
金崎宮 | ||
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南北朝争乱で散った南朝方の霊を祀る。尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と敗死。尊良親王御年27歳、恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒殺される。明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を金崎宮として官幣中社に加列される。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀された。現在は桜の名所、「花換え祭」という福を交換する催事が行われている。 |
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拝殿 境内花見 |
摂社絹掛神社 平成25年「花換えまつり」の巫女さん |
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ご祭神 本 宮 尊良(たかなが)親王 桓良(つねなが)親王 絹掛神社 藤原行房 脇屋儀助 新田義顕 気比氏治 他無名戦士戦没者321名 金崎宮公式サイト |
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