奈良朝末期から平安朝初期にかけてしばしばやってきた渤海国(ぼっかい)の使節は、冬の北西風に乗れば日程が早かったために、冬に来ることがしばしばであった。おそらくこういうにび色の海の日にも、この浦に着いたであろう。気比の松原からみる敦賀湾の景観は、かれらがやってきたころとさほどかわりがない。渤海の大船が入ると、船上でどらのたぐいが打ち鳴らされただろうか。この国使をうけ入れるべき官立の松原館から、迎えの小舟があわただしく磯を離れたであろう。司馬遼太郎著『街道をゆく4』朝日新聞社刊
東アジア情勢と渤海国交流
698年(持統12)大陸に渤海(698年 - 926年)という国が成立した。高麗国(朝鮮)の遺民(君主や王朝が滅びたのちも生き残って、遺風を伝えている民。)大祚栄により建国された。奈良から平安期、日本に接近しようと使節を送ってきた。渤海使である。渤海国は周囲の国々との交易で栄え、中国からは「海東の盛国」(『新唐書』)とも言われた。はじめは、唐・新羅との対立から日本に軍事協力を求める色彩が強い使節であり、日本側も、渤海が天皇の徳に感化されて来朝した形をとったとして、使節を厚遇している。しかし、渤海国が大欽茂の時代になると、唐との融和がすすみ軍事的な意味合いは薄れ、文化・経済活動が中心となっていった。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある。しかし、渤海は日本に対して依然として朝貢貿易の形を取り続けたため、渤海の貢物に応える回賜(お返し)が多大な負担となったいた。その対策として、日本側は使節来朝を12年に1度にするなどの制限をしたが、その交流は渤海が切丹国(4世紀以来、遼河支流シラ‐ムレン流域にいたモンゴル系の遊牧民族。)に滅ぼされるまで続いた。
渤海使船航路
渤海使船
渤海使船についての文献はほとんど残されていない。同時代の「遣唐使船」から推定される。1995年北陸電力地域総合研究所がイベント展示用として渤海使船の模型設計が和船研究家松本哲氏によってなされた。遣唐使船の資料から推定され、全長30m程度、幅8m。排水量300t、乗船人員は40〜60人程度、積載量150tと類推された

推進方法
基本的には帆走、櫓走も併用。
季節風や海流に抗して推進することができるものではなかったと思われる。従って、厳冬の荒波を越えて、日本海を直線的に縦断する能力は無かったと思われる


日本への航路

渤海使は北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され主に秋から冬にかけて日本に来航した。多くは晩秋から冬期に多かった。

上陸地
渤海使は日本海側の山陰から北陸、東北にかけて、多くの津に上陸した。前半は東北から西南の広い範囲に着岸したが、次第に西南の範囲になった。、それは航海術の発達によるものと思われる。前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。

帰国航路
直接日本海を横断するのではなく、対馬海流に乗って東北地方の沿岸を北東に進み、、北海道、サハリンで西に梶をとってリマン海流に乗り、沿海州の沿岸を南下したものと思われる。
律令制下の若越 第五節 奈良・平安初期の対外交流 参考




来航の頻度
来航の始め頃は12年に一度であったが、交易が中心になると回数は飛躍的に増えた。交易目的の来航者は入京させなかった。渤海からの貢物に対する数倍の回賜(お返し)が多大な負担となったため、回数を制限することになった。渤海使・遣渤海使年譜参照


上陸後

上陸後の渤海使は北陸道で平城京、平安京を目指したが、入京となるか現地より放還となるか、いずれにしろ、来航した現地では「安置」すなわち一時的に滞在させ、食料や衣料など生活物資が供給された。「安置」する場合は、史料には「便処」に「安置」したことがみえるが、具体的には「郡家」(天長五年正月二日太政官符)のほか、国府または
駅館などが利用されたと思われる。松原の「客館」などに移送されたと思われる。


民間交易
公式の渤海使と並行して民間による交易も敦賀津を経由して行われていたと思われる。遣唐使交流とは別に大陸の(唐・新羅)文物が流入していた。渤海使が日本にもたらした物としては、貂や大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であった。また、日本からは絹・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔の扇などであった。
渤海使と松原客館
西域や唐の先進文物は九州大宰府から山陽道または瀬戸内海を経て平城京に至り、正倉院は「シルクロードの終着点」とよばれている。しかし、同時期公的な使としては渤海との交渉の方が多く、渤海は日本と唐との中継貿易的な役割も果たした。その中で、気比社と松原客館(松原駅館)は渤海使の受け入れだけではなく、奈良・京から越の国への中継基地としての役割も担っていたと推定される。  
気比社と松原客館 代表的な文化交流 航海神 気比社の勢力
『延喜式』雑式に「凡そ越前国松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」とあることから、松原客館は気比神宮司によって管理され、渤海使の穢れを取除く儀式も行われたと思われる。気比社を中心に敦賀津は大陸との交易、文化交流の窓口、もしくは奈良、京との中継地であった。「北陸の大宰府」ともいえる役割を担っていた、と思われる。
『宣明暦』渤海使によってもたらされ貞観3年(862)から貞享元年(1684)まで824年間も用いられた。 『長慶宣明暦経』『尊勝咒諸家集』や『佛頂尊勝陀羅尼記』などの仏典に代表される大陸の文化・文物ももたらし、日本の文化に少なからぬ影響を与えた。東寺・石山寺所蔵品 留学生の帰国日本の遣唐使および留学生が渤海経由で唐に渡ったり、帰国したりしている 摂津国の住吉神社の宮司が歴代津守氏を名のっていること、『続日本後紀』承和六年(八三九)八月二十日条に、「摂津国の住吉神と越前国の気比神に幣帛を奉って船舶(遣唐使船)の帰着を祈る」とあり、両神とも要津の航海神としてまつられていた。。千田稔『埋れた港 気比社の神人は越後佐渡から山陰丹後の範囲に存在し、気比社に貢物した。気比社が北陸の総鎮守府であったとされた所以である。

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