思案した末、景虎は海路によることを前提に、越後の水軍の持ち船と他国からの回航船の賃借によって輸送に必要な船腹を確保し、不足する分は、民間の漁船を調達することによって充当しようと考えた。やはり、一向一揆が勢力を張る越中、加賀を通過する方法は、取りたくなかった。問題は敦賀から、京都までの陸路であるが友好関係にある朝倉義景の了解さえ得られれば危害を受けずに通過することができる
咲村 観著『上杉謙信』地の巻より
天文22年(1553) 第一回目の上洛。足利義輝、後奈良天皇に拝謁
永禄 2年(1559) 5千の兵を伴ない第二回目の上洛
海路による京への道

朝倉氏の敦賀津保護
敦賀湊は古代より北国から官物が廻送され、近江国海津・塩津へ送られ、琵琶湖上を通り京都へ運ばれるルートの要津であった。敦賀湊の重要性から朝倉義景は敦賀郡の支配を一門に行わせ、公式升(見世升)などを定め、敦賀湊を保護した。また、日本海から京、大坂への物流ルートは領国体制のなかでも、不可侵のものであったと推測できる。
上杉謙信・景勝の財政基盤 越後布
越後は青苧生産では日本一であった。越後布の素材は、カラムシ(苧ちょ麻ま)の靱じん皮ぴ繊維を糸に績つむいだアオソ(青苧)を織りあげたもので、正倉院所蔵の墨書銘のある越後布も麻布である。この越後布を盛んに交易し、
上杉謙信・景勝二代の大きな財政基盤になっていた。

イラクサ目イラクサ科の多年生植物。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古来から植物繊維をとるために栽培されてきた茎の皮からは衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れる。
越後魚沼産青苧運送ルート

魚沼地方の青苧は、信濃川と魚野川の舟便で小千谷に集荷され、そこから馬で柏崎か直江津へ出た。ここから専用のカラムシ船によって越前敦賀津に陸揚げされた。敦賀津からは北陸道で陸路琵琶湖に出て、再び水運で大津へ運び、京都を経て大阪天王寺の青苧商人に渡ったといわれている。しかし、応仁の乱や越後の永正の乱などで青苧役の納入がとどこおり、青苧座の実権は三条西家からしだいに守護代の長尾氏の手に移った。上杉謙信、景勝二代において大きな財源となった。二度の上洛は越後青苧の販売ルートの保護と拡充も視野に入っていたことは否定できない



北国船による日本海海運
北陸、奥羽地方の産物は北国船によって敦賀津や小浜津に陸揚げされ琵琶湖の水運も併用して京に運ばれた。5000名の兵員を運ぶために水軍だけではなく、これら北国船も調達して京に向かったと思われる。三方を山岳に囲まれた越後は水軍を持ち、日本海交易で財政の一つを支えており、上洛のための兵員輸送に膨大な船数を確保できた。近世江戸期に開発された弁財船までは北国船、羽賀船が日本海交易に使われた。筵帆で積載量は600〜1600石の大型船である。横風での前進帆走はできなかった。乗員は10〜30名程度。

北国船イメージ
戦国合従連衡
上杉謙信二度の上洛を果した天文、永禄時、謙信は武田信玄との対立に入っていた。武田家は一向宗本願寺と縁戚関係を結び、一向一揆の勢力が強い越中、百姓が持ちたる国加賀と協力体制にあった。越中の一向宗勢力をもって盛んに越後を牽制していた。越前朝倉氏は越後布が敦賀を経由して大阪天王寺の青苧座に入ることから、敦賀津を保護し、領国体制の中、商業的な価値を認めていた。上杉、朝倉、及び近江六角・浅井氏間の敵対性は希薄だった。従って越後上杉家・越前朝倉氏VS信州武田氏・越中一向宗の合従連衡の様相の中、上杉謙信上洛には越中、加賀を避け、海路を利用したことは容易に推定できる。また、上洛の目的に領土的野心はなく、足利将軍家の保護、京の治安を第一義としていたので、朝倉、六角氏は京への通過を阻害しなかったと思われる。
謙信の中世的体質
守護大名体制の崩壊から戦国領国体制への移行、それは室町幕府の権威失墜であるが、まだこの古い権威を利用する場面が残っていた。14代足利義輝も有力戦国大名間の和睦、仲介をすることで幕府の権威復活を画していた。しかし、15代義昭になり、織田信長の台頭によって古い権威の利用は終わる。二度の上洛を果した上杉謙信は中世的権威を否定せず、むしろそれを大義名分にして関東制覇を成し遂げようとした領国大名の典型でもあった。