『あっ。たいへんだっ。』下でも驚いた。『何だ!何か見えたのか.........』上の影は凝然、自失しているように見える。次々に、下の者も登って行った。そして皆、夜風の空に、肌をすくめた。そこに立てば、余呉、琵琶はいうに及ばず、湖に沿うて南へ一すじの北国街道も、伊吹の裾まで一望される。.......見れば。夜目なので定かでないが、長浜あたりと覚しき地点をつらぬいて、ここの麓に近い木之本まで、一条の光焔が河をなしているではないか。松明、篝の隙間なき流れだ。炎炎、点点眼のとどく限り火流光輪である。
『新書太閤記(七)』吉川英治著 講談社刊
本能寺の変で倒れた織田信長が作り上げた覇権と体制の継承を決すべく、天正11年(1583)、近江国伊香郡(現、長浜市)の賎ケ岳を中心に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田家の宿老柴田勝家が戦った。柴田軍は敦賀と滋賀県の県境、刀根坂峠の上に玄蕃尾城を築き、他の諸将は余呉湖北方、県境の峰々に砦を築いた。羽柴軍は現在の木之本に本陣を置き、余呉湖を囲むように陣を敷いた。双方、砦や陣地の強化を行い、一カ月余りの膠着状態となった。


玄蕃尾城へのアクセス
敦賀より
  
車 国道8号長浜方面〜刀根・杉橋方面左折〜柳ケ瀬トンネル入口前より林道〜刀根坂峠下車返し〜徒歩

木之本より 
国道365号〜柳ケ瀬〜敦賀方面柳ケ瀬トンネル(自転車、徒歩通行不可)〜敦賀側出口から林道

柳ケ瀬より玄蕃尾城への登山道あり
戦いの経過
膠着から中入り 3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬周辺に布陣を完了させた。対陣以来1か月、散発する小競り合いはあるも、戦線は膠着状態。そして4月16日、、戦局は動く。岐阜の織田(神戸)信孝が勝家の求めに応じて挙兵。羽柴秀吉は岐阜に向かって移動する。その間を衝いて、柴田軍が先に大規模に動いた。佐久間玄蕃政盛が大岩山の中川清秀等攻撃を進言、柴田軍は攻撃に掛った。中入りである。20日夜半、佐久間政盛が行市山を出て南下、払曉に大岩山の羽柴側中川清秀を攻める。中川秀清奮戦するも破れ戦死する。さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。 丹羽長秀賎ケ岳を守る 時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が琵琶湖北岸海津への上陸を敢行した。長秀率いる2000の軍勢は、撤退を開始していた賎ケ岳の守将桑山重晴の軍勢と合流し、間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。 柴田勝家狐塚に前進 中入りの成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。柴田勝家も玄蕃尾城を出て南下、狐塚に布陣する。 美濃大返し 柴田軍のこの動きに羽柴秀吉は待っていたかのように迅速に反転した。美濃大垣から52kmの大返しが始まる。5時間ほどで賎ケ岳の戦場に返した。(同日の午後九時に賎ケ岳到着)当時の常識とはかけ離れていた。街道筋には炊き出しなど準備され、兵士は具足を外して急いだという。 佐久間軍虚を衝かれる 春霞にその稜線を希薄にしている伊吹山が遠望できる。その夜、信じられない時間に、山麓と思われるところから麓の木之元まで羽柴秀吉軍の松明、篝火群が現れたのである。20日夜である。早くとも21日が当時の常識だった。守備についていた羽柴長秀の羽柴軍も加わって、そのまま秀吉軍は佐久間軍に襲いかかった。佐久間軍は戦線を固めるべく退きながら、よく戦い戦線を立て直そうとした。後狐塚に押し出している勝家本隊、別所山から茂山に進出していた前田利家等と戦線を結ぼうとした。しかし、柴田勝政軍が羽柴軍に攻められ、苦戦に陥った。それに支援するため、佐久間軍は返した。 前田利家撤退 しかし、賎ケ岳の戦いはここまでであった。前田利家軍の戦線離脱である。集福寺口に移動した。それによって戦いの帰趨が決定付けられた。佐久間軍は乱れた。本陣の柴田勝家からも佐久間、柴田勝政軍の総崩れに見えた。狐塚から勝家本隊も後退した。柴田側の総崩れとなる。前田利家は羽柴秀吉の朋輩でもあったが、突然の離脱については諸説がある。ともあれ、前田利家は集福寺口から塩津街道(現国道8号線)を経て敦賀へ、木の芽峠を越えて越前府中(現越前市)に帰還した。 柴田軍北国街道を敗退 柴田軍は雪崩を打って崩れ、柴田勝家は北国街道椿坂峠を敗走する。この北国街道、勝家が近江への軍用道路として整備した道でもある。そして越前北の庄(現福井市)まで羽柴秀吉の追撃を受け、城とともに滅んだのである。

柴田勝家墓(西光寺境内)
福井県福井市左内町8−21

の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
 勝家辞世の句
敗者の砦玄蕃尾城跡を訪ねる
刀根越えへの道
敦賀から北陸道(現国道8号線)を南に進み、疋田を経て、刀根・杉箸集落方面への枝道に分かれる。この道が刀根越えの道である。明治15年開通した旧北陸線の廃線跡道路でもある。
刀根・杉箸方面

廃線跡の道路は急激なアップダウンがない。北陸自動車道と並行して行く。越前国、最後の宿場町であった刀根集落に着く。集落と道を隔てて気比神社がある。(北陸総鎮守府『気比神宮』の枝社ではない。)杉の巨木に囲まれ、周囲と陰影を画して境内は薄暗い。 「刀根」の集落を抜けて、しばらくすると煉瓦造りトンネルが口を開けている。旧柳ケ瀬トンネルである。トンネルは福井県と滋賀県を分ける。抜けるとそこは北国街道である。
最古の北陸線小刀根トンネル
途中、現存する日本最古の
旧北陸線小刀根トンネル

トンネルを出れば近江北国街道
県境の旧北陸本線柳ケ瀬トンネル
玄蕃尾城へ山登り
敗者の砦、柴田勝家の本陣玄蕃尾城はこの柳ケ瀬トンネルの山上にある。トンネル入口直前にある小道を左折、道なりに右へ、トンネルの上を縦断して林道となる。玄蕃尾城まで4・5kmとある。林道は途中で枝分かれするが、 玄蕃尾城跡へは左に行く。ここからは雨水で作られた地割れ、落石がある地道になる。そして車返しの空地に着く。空地から玄蕃尾城跡への道は山肌をつづら折りに刻む。道幅は一気に狭くなる。00mほどの道のりだが、つづら折りを過ぎると切り通しに着く。そしてそこが刀根坂峠。峠を越えると近江の国である。元亀3年(1572)この峠で越前朝倉軍は織田信長軍に殲滅された。(刀根坂の戦い)
峠のつづら折りの道 下は駐車場
 
峠へのつづら折りの道

刀根坂峠切通し
玄蕃尾城遺構
玄蕃尾城への道
玄蕃尾城へは峠から中内尾山の頂上まで登る。つづら折りの道を100mほど登ると稜線の平坦な道になる。そこかしこに山桜が見える。やがて玄蕃尾城跡に着く。遺構の入り口に案内板がある。縄張り図に各虎口、馬泊まり、司令塔、櫓、平坦領域が示されている。歩を進める。まず「南虎口攻撃口)」があって本丸に向かう。途中、馬泊まり土塁、空堀が見られるが良く往時の姿を彷彿させるほど保存されている。直線距離にして100m余りで本丸になる。本丸跡は最も高い位置に在り、その中に物見櫓跡がある。西手の刀根越え街道、東手の北国街道を抑えるためにこの内中尾山に玄蕃尾城を築いた。この狭隘な地形に堅牢な砦を構えた柴田勝家の戦略は先ずは専守防衛だった。そして、羽柴軍への挟撃戦を想定していた。玄蕃尾城はその本陣であった。

主郭(本丸)跡
クリックで拡大
櫓台から北国街道・余呉方面

空堀跡

櫓台から腰郭
玄蕃尾城縄張り
クリックだ拡大詳細図
玄蕃尾城案内板より補修

土 塁 跡

土塁跡
空堀ははっきり姿を残している
兵站郭空掘跡
天正11年(1583年)、柴田勝家によって構築。中世城郭から近世城郭への過渡期、限定された時期の遺構として貴重であり、良好に遺存されている。史跡に指定して保存を図っている。平成11年7月13日国指定史跡」とあり縄張り図も掲載されている所在は敦賀市刀根50番字外ケ谷から滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬にまたがる案内板より

兵站郭跡

激戦地余呉湖から賎ケ岳

北国街道(現365号)

余呉湖から賎ケ岳を望む
柳ケ瀬へ
滋賀県側への道はつづら折で下っていく。急峻である。この道で朝倉義景軍は織田信長軍に追いつかれ、さんざんに打ち破られた。夏草にほとんど覆われている。下山すると、近江国最初の宿場町、余呉町柳ケ瀬集落、北国街道(国道365線)沿いにある。北国街道はしばらく北陸自動車道に沿って、ほぼ直線の緩やかな下り坂(廃線跡の道)で南下する。余呉湖に向かう道だが、右手に連なる山々に柴田軍の各将が砦を築き、籠もった。行市山には猛将佐久間盛政、別所山は前田利家、金森長近、柴田勝正等も陣取った。

余呉湖
激戦地余呉湖に着いた。余呉湖は西北に新明山、東に大岩山、そして南は賎ヶ岳、周囲をそれらの山にかこまれている。静かなたたずまいを見せている。
羽柴秀吉軍はこれらの山々に布陣していた。これらの布陣から賎ヶ岳は羽柴軍の戦略ポイントとなる。賎ヶ岳攻略をめぐって余呉湖畔で激しい戦いが行われた。殆どの激戦、局地戦はこの湖畔で行われたことから、「余呉の庄の戦い」と敢えて名づけるむきもある。

木之本・賎ケ岳
余呉湖の南東には、羽柴秀吉本陣、弟羽柴秀長の陣のあった木之本町がある。木之本町から北陸道(国道8号線)を西に、琵琶湖方面に向かうと賎ケ岳の南側麓に着く。そこから、リフトで一気に賎ヶ岳山頂に登れる。ケーブルを利用せず登山道を歩く。峻険な山肌をつづら折りで登る。鬱蒼とした杉木立から冷風が送り込まれて来る。もし、柴田軍がこの賎ケ岳を攻略していたなら、木之本、琵琶湖北岸、西浅井郡を扼することができた。この峻険な道がそれを想わせる。

賎ケ岳の攻防
佐久間玄蕃政盛は大岩山攻略の後、賎ケ岳を攻めようとしたが、琵琶湖大音から丹羽長秀が来援して阻まれた。その間、信じられない時間(同日夜)に羽柴軍本隊の美濃からの大返しがあった。賎ケ岳の死守は勝利のポイントとなった。
一気に賎ケ岳山頂
賎ケ岳山頂ケーブル

賎ケ岳より琵琶湖
丹羽長秀この方面から賎ケ岳を守る

賎ケ岳南面

賎ケ岳より東近江
伊吹からここの麓まで、光焔の河となって羽柴軍現れる。