その昔、聖武天皇の御代に異賊が攻め寄せてきた時、敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の松が浜辺に出現しました。そしてその松の木の上には気比神宮の使鳥である白鷺が群れをなし、ちょうど風にひるがえる旗のように見えた。敵には数万の軍勢に見え、恐れをなして退却したといわれている松原の一夜伝説
気比の松原の歴史
古代より気比の松原は氣比神宮の神苑だった。気比社の神人が近隣住民の利用を管理していた。また、古代において、松原は西の入り江(現笙の川河口辺り)から西に延びていた。古代の北陸道の駅、松原客駅は松原近くの風光明媚なところに位置していたと想われる。渤海使など大陸からの渡来者を迎えた松原客館も同じ場所にあったとも推定される。中世に入って、元亀元年(1570)頃織田信長によって、松原は氣比神宮から没収された。江戸時代は小浜藩の支配下に入り、松原の木々は御用木(藩有林)となり、近隣住民は藩への納税のため燃料となる松葉採集を行ってきた。松原はこうした管理によって後世へと引き継がれた。明治に入ってからは 国有林として管理されている。太平洋戦争時、軍用木材として一部伐採されたが、白砂松青の松原は400,000m2 の広さの中に17,000本の林で形成されている。松林の中には遊歩道が張り巡らされ市民憩いのスポットになっている。三保の松原、虹の松原と共に日本三大松原として知られ1934年(昭和9年)国の名勝に指定される
気比の松原・四季

夏には京阪神、中京からの海水浴客で賑わう。
海水浴場
気比の松原は白砂青松の景色と同時に海水浴場として絶好の条件を備えている。京阪神、中京と至近距離にあり、水質は良好である。


灯篭流し&花火大会
旧盆8月16日の夜は精霊流し(灯篭流し)と花火が松原の海を覆う。

憩いの場
気比の松原は市民だけでなく、敦賀を訪れた人々に憩いの時間を提供する。投げ釣り、林間の散策、季節、時間によってその姿を変える気比の松原である。

旧盆の16日には灯篭流しと花火が夜の海を埋める。

福井県観光連盟素材集から

松原雪景色
 

松原公園入口石碑
男爵後藤新平書・大正9年建立

明治天皇巡幸記念
史跡 駐輦の碑
明治天皇巡行
明治11年、明治天皇北陸巡幸の折、ここ気比の松原に立ち寄り白砂青松を讃えた、
勝海舟訪れる
會経駐輦處 黎首憶甘棠
松嶺如奏曲 海涛和洋々
辛卯仲秋 

「ここは嘗て明治天皇がご覧になったとこである。国民は明治の御代を喜んでいる。松風は音楽のようであり、波の音もそれに合せてまさに洋々たるさまである勝海舟安房
建立 明治24年9月15日
敦賀市教育委員会案内板

松原の 続くかぎりの 秋の晴
高浜虚子松原を詠む
古代松原客(駅)館は松原近くにあった

櫛川の別宮神社
古代渤海使を迎える施設松原客館は気比の松原付近にあったと比定されている。松原遺跡がある気比神宮の「お旅所」一帯(敦賀市櫛川地区)ににあったと記されている。『扶桑略記』『延喜式』また、「延喜式」雑式には「越前の国松原客館、気比神宮をして検行せしむ」とあり、櫛川の別宮神社を気比神宮の別宮とすれば否定できない。また、渤海使の災いを祓っていたと想わせるものも発掘されている。現在、この地域を流れる井ノ口河口は湿地帯になっているが、砂州によって形成された潟湖の名残りを留めている。