義景立出馬ニ乗玉ヘバ、右往左往ニサワギ、下人ハ主ヲ捨テ、子ハ親ヲ捨テ、我先我先トゾ退ニケル。此間雨降タル道ナレバ、坂ハ足モタマラズ、谷ハ泥ニテ冑ノ毛モ不見。泥ニ塗レテ足萎へ友具足ニ貫テ、蜘蛛ノ子ヲ散ガ如クシテ、其路五六里ガ間ニ、馬物具ヲ捨タル事足ノ踏所モナカリケリ。軍ノ習勝ニ乗時ハ鼠も虎トナリ、利ヲ失フ時ハ虎モ鼠トナル物ナレバ、草木ノ陰モヲソロシクシテ、シドロモドロニ退キケリ 信長公記
刀根坂峠へのアクセス
敦賀より
  
車 国道8号長浜方面〜刀根・杉橋方面左折〜柳ケ瀬トンネル入口前より林道〜刀根坂峠下車返し〜徒歩

木之本より 
国道365号〜柳ケ瀬〜(柳ケ瀬集落より登山道あり)〜敦賀方面柳ケ瀬トンネル(自転車、徒歩通行不可)〜敦賀側出口から林道

柳ケ瀬より玄蕃尾城への登山道あり
織田信長の小谷城浅井長政孤立化攻勢
元亀元年(1570)織田信長は満を持して越前朝倉義景を討つべく敦賀金ヶ崎、天筒山城を攻略。しかし、近江浅井長政の離反により金ヶ崎を退き、京に脱出。世に言う『金ヶ崎の退き口』。その年の中に「姉川の合戦」で浅井、朝倉連合軍を撃破した。そして、元亀3年(1572)に入って信長は本格的に浅井長政の小谷城孤立化の態勢を強めた。3月、信長は小谷城近くの横山城に入り、木之本方面を焼き払い、7月湖北の阿閉貞征が守る山本城と小谷城を分断、小谷城前の虎御前山に砦を築き攻撃態勢をとった。攻防急を告げるに至って、朝倉義景は2万の軍勢で来援、木之本田上山に本陣を置き、小谷城に連なる大嶽に後詰した。
武田信玄の陣歿から織田信長の攻勢
織田信長VS浅井・朝倉連合軍の対峙になって元亀3年10月織田信が最も恐れていた武田信玄が西上に掛った。12月には三方ケ原で徳川軍を一蹴する。織田信長最大の危機に陥った。が、翌年4月武田信玄は忽然と陣歿する。8月信長はこの危機を脱すると、本格的な浅井軍への攻勢を再開する。越前に戻っていた朝倉義景も再来し木之本に布陣する。しかし、信長方の調略によって、朝倉家では前波吉継や富田長繁ら有力家臣の多くが信長方に寝返ってゆく。朝倉、浅井分断作戦も次々と成功する。湖北の山本城阿閉貞征(あつじさだゆき)を降伏させ、小谷城と山本城からの挟撃を防いだ。8月12日近畿を襲った暴風雨の中、信長は大嶽砦、丁野砦を奇襲し、陥れた。

朝倉軍退却して越前敦賀疋壇城を目指す
織田軍の暴風雨を利用した奇襲にあっけなく大嶽砦、丁野城は落ちた。朝倉軍はここで乾坤一擲浅井軍と共に戦うことをしなかった。戦闘員数の劣勢、度重なる近江への軍事行動による兵員の疲弊から、野戦の不利を認めざるを得なかった。また、元亀元年の姉川の戦いの敗北が判断に去来したであろう。朝倉軍は領国の居城、敦賀の疋壇城を目指して退却し、防衛の態勢を固めようと画した。しかし、織田信長はこの機を逃さなかった。逃げ足の朝倉軍を猛迫した。信長自ら先頭に立って追う。機動力に勝る織田軍は北国街道を追撃し、刀根坂の麓「柳ケ瀬」で追付き、逃げる朝倉軍を攻めたてた。
戦国大名朝倉家の滅亡

疋壇城石垣
今はわずかに石垣を残す疋壇城跡

朝倉義景墓(福井県大野市)
戦意の低い朝倉軍は脆かった。退却と信長の猛追にその脆さは一気に表面化し、織田軍によってなで斬りにされた。『信長公記』によれば武将38名、兵3800人の死者があったことが記されている。誇大ではあるが、織田軍による朝倉軍殲滅戦であった。北庄城主朝倉景行や弱冠17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう名のある武将が多数散っていった。ここにおいて戦国大名朝倉家の実質的潰滅である。
「山の険阻を云ず馳重りける間、朝倉軍は或は谷へ堰落とされ、或は高岸より馬を馳倒して、其侭討たるる者もあり、唯馬具を抜捨て、逃伸とする者はあれども、返合戦はんとする者はなかりけり」(越州軍記)
義景は一旦疋壇城に入城するも信長軍の攻勢の前に逃走して一乗谷を目指す。付き添ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近だった。8月15日一乗谷に帰還。8月16日、義景は朝倉景鏡の勧めによって一乗谷を放棄し、大野郡東雲寺に逃れた。8月17日には平泉寺に援軍を要請するも、すでに信長の調略を受けていた平泉寺は東雲寺を逆に襲う始末であり、義景は8月19日、大野賢松寺に逃れた。しかし、8月20日早朝、その景鏡が信長と通じて裏切り、賢松寺を襲撃する。ここに至って義景は遂に壮烈な自害を遂げた。享年41。ここに初代朝倉敏景から100年北陸の勇、戦国大名朝倉家の滅亡となった。
柳ケ瀬から刀根坂への道
柳ケ瀬から刀根坂峠への入口


散在していた石塔、野仏
一乗谷朝倉氏遺跡
福井県福井市街の東南約10km、城戸ノ内町、足羽川支流にある。戦国大名朝倉氏栄華の跡。一乗谷川下流沿いの細長い谷あいに築かれた戦国時代の城下町と館跡、および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。主館や武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋、庭園から道路に至るまで、戦国時代の町並みがほぼ完全な姿で発掘されている。また、遺からは約5,000基の遺構が検出され、160万点を超える遺物が出土している。

小規模な建物が細く並んでいた。

町屋が復元され、裏庭、井戸、厠なども再現

城戸
城下町の南北に土塁を築いて城門を配した。

一乗谷全景
東西約500メートル、南北約3キロメートル

福井県観光連盟素材

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朝倉館ジオラマ

唐門 
朝倉館跡正面の堀に面して建つ、唐破風造り


朝倉義景が居住した館跡

庭園跡
城戸の外にも町が形成されており、特に下城戸の北の阿波賀(福井市安波賀町)や前波(福井市前波町)は三国湊につながる足羽川が流れ、一乗谷の川湊として栄えた。美濃街道、朝倉街道も通っており、多くの物資が集積していた。米はもとより、唐物等も売買されていたようである。市場も設けられており、主要物資の相場を決定していた。